1972年、オリンパス光学工業株式会社(2003年10月に「オリンパス株式会社」に社名変更)は、米谷美久氏の指揮の下に「一眼レフの三悪の追放」を掲げて5年の歳月をかけて開発した一眼レフ「OLYMPUS M-1」を、5月1日に量産開始、5月24日にプレス発表、6月19日にホテルオークラ“平安の間”で発表会を催した後、7月1日に発売を開始しました。「三悪」とは、従来の一眼レフでは当たり前だった「大きい・重い・撮影時の音やショックが大きい」の三つの欠点を指し、その克服を目指して小型化を実現した M-1 の横幅は、偶然にもバルナック・ライカの LeicaⅢf と同じ 136mm でした。
- レンズ
西ドイツで同年9月23日から9日間の会期で開催されたフォトキナの会場で、ミノルタの設計部長(当時)で毒舌家としても知られた吉山一郎氏に「おめでとう、よくやったね。しかし、月夜の晩ばかりと思うなよ!」、営業から一眼レフをもっと小さくしてほしいと言われていたが、これ以上はできないと言ってきたのに、こんなに小さな一眼レフを作られてしまって、私の立場をどうしてくれる、という逆説的な祝辞を受けたことを、米谷氏は『一眼レフ戦争とOMの挑戦』(朝日ソノラマ)の p.140 に書いています。
「宇宙からバクテリアまで」を標榜して開発が進められていた「M-SYSTEM」=マイタニ(米谷)・システムの構築もスタート。28mm から 300mm まで、フィルター枠の先端が銀色に輝く鏡胴デザインの交換レンズ14本が M-1 と同時に発売されました。標準レンズ「M-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4」は、その最初の14本のひとつです。
小型化を命題として開発が進められたMシステムは、レンズにも小型化を迫りました。Mシステム開発着手時に米谷美久氏から、画質を向上させつつ小型化するよう求められたレンズ設計部次長の早水良定氏は、大学で航空工学を専攻したものの戦後に技術者の職がなく、女子高の教諭を務めながら光学研究を学会に発表していたところ、その熱心さを買われてオリンパスにスカウトされたという人物で、鮮鋭な描写でハーフサイズとは思えない画質を実現した「オリンパス・ペン」(1959年10月)のレンズ、D.Zuiko 2.8cm F3.5 の設計者としても有名です。その早水氏の下でMシステム・ズイコー交換レンズ群の設計の中核を担ったのは中川治平氏で、G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 も中川氏が設計したレンズのひとつです。この G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 付きの OLYMPUS M-1 の発売時価格は 61,500円(M-1 ボディ ¥37,000、ケース ¥2,500、G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 ¥22,000)でした。
G.ZUIKO の「G」はアルファベットの7番目で、このレンズが7枚構成であることを示し、「AUTO」は自動絞りを、その後の「S」は "Standard"、つまり標準レンズであることを示します。フィルターアタッチメントサイズは 49mm、絞り羽根は8枚、最短撮影距離は 45cm です。G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は、ダブルガウスの最後の正レンズを2枚に分割し、2枚目と3枚目のレンズの間に空気レンズを挟んで6群7枚とした変形ガウスタイプです。フィルター枠が銀色なので、このモデルは「銀枠」または「銀縁」と呼ばれます。
この銀枠 G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の光学設計に当たる特許は1972年5月4日に特願昭47-44325の出願番号で出願され、1974年1月18日に特開昭49-5620が公開、1975年11月19日に特公昭50-35813が公告され、日本国特許第821334号として成立しました。なお、米国特許はNo.3851953(PDF)、ドイツ特許はDE2322302です。
特公昭50-35813には、こうあります。
左 : G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4(銀枠) 右 : NIKKOR-S Auto 50mm F1.4
特許記載の球面収差図は g線(435.835 nm、青紫)と d線(587.56 nm、黄)の二つ、つまりアクロマート設計ですが、吉田正太郎氏はそのほかに F線(486.13nm、青)、e線(546.07 nm、緑)、C線(656.27 nm、赤)の球面収差も算出した上で、『カメラマンのための写真レンズの科学』(地人書館)の p.135 に、こう書いています。
そして。
M-1 と M-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の発売後にこのレンズ(シリアルナンバー 100606)を購入してテストした『アサヒカメラ1972年10月号』(朝日新聞社、1972年9月18日発売)の「ニューフェース診断室」で、通産省工業技術院機械技術研究所の深堀和良氏が実測・作成した球面収差図は、『カメラマンのための写真レンズの科学』でのg線の図に似たカーブを描きました。
その収差図は、中心からF2.8に向かって-0.1mm程度の補正不足に傾き、そこからF2より外側までにかけては補正過剰側に戻ろうとしながらも-0.1mm弱の補正不足量をほぼ保ち、そして最外縁に向かって再び補正不足量がわずかに増すという複雑なカーブを描き、全域でわずかに補正不足を保つS字状曲線を示しています。それまでの国産一眼レフ用の大口径標準レンズでは、NIKKOR-S Auto 50mm F1.4 が典型ですが、レンズ最外縁では大きく過剰補正として、開放から1段ほど絞ると球面収差がほぼなくなる、いわゆる「解像重視設計」が普通でしたが、G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の球面収差は全く異なり、コントラストを重視したアンダーコレクションの収差補正になっています。
この球面収差を、「ニューフェース診断室」はこう評しています。
このような、球面収差をS字状カーブのわずかな補正不足とする方法は、二つあります。
ひとつは非球面の導入で、NOCTILUX 50mm F1.2(ドイツ特許DE1447227・スイス特許Nr.447644・米国特許No.3459468)、Ai Noct-NIKKOR 58mm F1.2、Canon FD85mm F1.2 S.S.C. Aspherical などがS字状カーブのアンダーコレクションになっています。
もうひとつの方法は、レンズの収差を、意図的に発生させた高次収差で打ち消す、「高次の収差補正」という技術です。SUMMILUX-M 50mm F1.4後期型は第5群の、物体側に向かって凹の曲率の強い接合面で高次収差を発生させて、球面収差および波長による球面収差の差を補正しています(SUMMILUX-R 50mm F1.4 はこの手法を使わず、補正過剰量をごくわずかに抑えてほぼ完全補正としたシンプルなカーブになっています)。G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 も、おそらくこの技術です。ただし、この手法なら必ずアンダーコレクションになるわけではなく、Sonnar 50mm F1.5 や NIKKOR-S·C 5cm F1.4 は実測データを見ると非常に大きな過剰補正ですし、NIKKOR-S Auto 55mm F1.2 も補正過剰の解像重視設計です。この手法でS字カーブのアンダーコレクションにまとめている国産レンズは、この1972年の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 以前はマクロレンズ以外には、一般撮影用の大口径標準レンズでは例が非常に少なく、1953年に土居良一氏が設計した FUJINON 5cm F1.2(特公昭31-477・米国特許No.2718174)ぐらいではなかったかと思います。
ですが、G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 のこの収差補正は、どうも意図して狙ってやったものではなかったようです。「ニューフェース診断室」での測定データについて、後に設計者の中川治平氏自らが『レンズテスト[第1集]』(朝日ソノラマ)の p.168~169 で次のように解説しています。
アサヒカメラ「ニューフェース診断室」の、球面収差以外についての指摘も以下に抜粋しておきます。
開口効率 33% という数値は、特公昭50-35813の
また、この評で、テストされたシリアルナンバー 100606 の個体に偏心があったことが指摘されていますが、2枚目と3枚目を分離したガウス型レンズの構成について、キヤノンのレンズ設計者の辻定彦氏は『レンズ設計のすべて』(電波新聞社)の p.95 で、一般論としてこう解説しています。
以上から、銀枠 G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4(No.100606)の数値をまとめておきます。
51.6mm F1.40
F5.6に絞ったときの焦点移動量 0.04mm(後ピンに写る方向)
歪曲収差 -2.0%(タル型)
開口効率 33%(画面対角線90%の位置)
解像力
絞り F1.4(開放)
中心部 180本/mm 平均 112本/mm (画面中心が最良となるピント面)
“画面全体が平均的に最良となるピント面”は“画面中心が最良となるピント面”に一致する。
絞り F5.6
中心部 224本/mm 平均 170本/mm (画面中心が最良となるピント面)
“画面全体が平均的に最良となるピント面”は“画面中心が最良となるピント面”に一致する。
F5.6の“画面中心が最良となるピント面”は、開放時のそれと一致する。
ちなみに、SUMMILUX-M 50mm F1.4(No.2346125)の『アサヒカメラ1972年1月号』初出の測定値をまとめると、以下の通りです。
51.6mm F1.44
F5.6に絞ったときの焦点移動量 0.04mm(後ピンに写る方向)
歪曲収差 -1.4%(タル型、半画角22.5°において)
開口効率 35%(画面対角線90%の位置)
解像力
絞り F1.4(開放)
中心部 160本/mm 平均 75本/mm (画面中心が最良となるピント面)
中心部 125本/mm 平均 98本/mm (画面全体が平均的に最良となるピント面)
“画面全体が平均的に最良となるピント面”は“画面中心が最良となるピント面”より
0.09mmレンズに近い位置にある。
絞り F5.6
中心部 224本/mm 平均 135本/mm (画面中心が最良となるピント面)
中心部 71本/mm 平均 150本/mm (画面全体が平均的に最良となるピント面)
“画面全体が平均的に最良となるピント面”は“画面中心が最良となるピント面”より
0.08mmレンズに近い位置にある。
F5.6の“画面中心が最良となるピント面”は、開放時のそれと一致する。
さて。西ドイツ、ケルンで1972年9月23日に開幕したフォトキナですが、その3日目、9月25日に事件が起こります。オリンパスの出展ブースにいた米谷氏の元に、ライツ社の代表を自称する3人が訪れて、M-1 のカメラ名はドイツの登録商標になっている Leica M3 に抵触しているとする口頭での抗議を行いました。しかしこれは筋の悪い主張で、商標の登録はアルファベット1字+数字1字では新規性がないとして受理されません。従ってそれぞれのカメラの商標は「M-1」「M3」ではなく、「OLYMPUS M-1」「Leica M3」ですから、そもそも抵触するはずがないのです。米谷氏はこのことをライツの3人に対して主張したものの、相手は聞く耳を持たず、強硬に抵触を主張しました。そこで、「M-1」の前に何かもう1字つけ加えるという打開策を提案したところ、3人は矛を収めて引き揚げていきました。
このとき「OLYMPUS M-1」は商標登録申請中で、後に登録されました。
この抗議の裏に何があったのかは全く不明です。ライツはこの年、1972年の6月に、1969年のフォトキナ会期中に交渉を始めて1971年に合意に達し契約に署名していたミノルタとの提携を正式に発表し、この時期は、"Leica MC"(M型ライカのコンパクト版)のコードネームでライツの“ヴィリー”ことヴィルヘルム・シュタイン(Wilhelm Stein)のグループが構想し開発していたレンジファインダー機、小型(Compact)で軽量(Light)な“コンパクト・ライカ”(Compact Leica)、価格も手ごろな“フォルクスライカ”を、ミノルタの提言で「Leica CL」(日本国内向けは「LEITZ minolta CL」)と名付けて、生産をミノルタが担当して発売する準備が進んでいた時期でもあります。小型・軽量のコンセプトを先に実現されたことに苛立ったのか、あるいは、LeicaⅢf と同じ横幅のカメラの名称に「M」を冠したことを、肥満体と化してしまった Leica M5 に対する当てつけと勘ぐったのかもしれません。エーミール・G・ケラーは、ライツも開発計画の再検討を迫られることになったと、『ライカ物語 誰も知らなかったライカの秘密』(光人社、p.214)に記しています。
事の顛末と名称変更のことは、フォトキナ終了後にオリンパスの常務会に報告されて了承されたものの、直後の企画会議では結論が出ず、名称立案小委員会が開かれることになりました。10月20日に開かれたその委員会の会議は議論百出で紛糾、名称変更の候補としてAからZまで全アルファベットを当てて検討して、激論の末に「UM」と「OM」が残り、最終的に「OM」が採択されました。この結論を受けて、1973年5月末から、カメラ名は「OM-1」、システム名称は「OM-SYSTEM」へと変更されました。銀枠の M-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 も銀枠のまま、光学設計も変わることなく、ただレンズ銘だけが「OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4」に変わっています。
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, Radioactive), F1.4
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, Radioactive), F2.0
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, Radioactive), F2.8
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, Radioactive), F5.6
OLYMPUS OM-D E-M5 MarkⅡ(ISO 200, A mode)
Good Smile Company, 1/8 Scale “初音ミク V4X” (Hatsune Miku V4X)
この銀枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は放射能レンズ(トリウムレンズ)としても有名です。手持ちの個体(シリアルナンバー 156670)は、アトムレンズのページにも書きましたが、前玉側 6.55 µSv/h・後玉側 0.83 µSv/h のガンマ線を検出しました。ところが、この銀枠モデルは後に硝材の成分が変更されています。
手元にある別の銀枠の個体、シリアルナンバー 5092xx を計測したところ、前玉側 0.08 µSv/h・後玉側 0.09 µSv/h と、計測時にあらかじめ測っておいたバックグラウンド値(0.08 µSv/h)と変わらない数値を得ました。つまり、放射能レンズではなくなっています。また、写真家の安孫子卓郎氏の『アトムレンズの研究 その違いはあったのか』によると、銀枠のシリアルナンバー 326264 の個体の放射線量率は前玉側 3.26 µSv/h・後玉側 0.43 µSv/h と明らかにトリウムレンズなのに対して、銀枠のシリアルナンバー 508166 の個体は、前玉側 0.15 µSv/h・後玉側 0.09 µSv/h と、概ねバックグラウンド値と思われる低い数値になっています。
シリアルナンバー 156670 と同 5092xx のレンズの反射像を比べると、反射像の出方自体は特に違いが見られないことから曲率に目立った変更はないと思われ、しかし前玉の反射像の色がはっきり違う(No.156670 の酸化トリウムを含む前玉は反射像がオレンジ色に近く、No.5092xx の前玉側反射像は青みが強い)ことからコーティングに違いがある=硝材が透過しやすい色域に違いがあると思われ、このことから、光学設計はそのままで硝材の成分のみ変更されたと断定して、まず間違いないと考えます。安孫子卓郎氏も『アトムレンズの研究 その違いはあったのか』で、描写に
1973年までに発売が始まった日本製レンズには放射能レンズが多く見られますが、1974年以降に新しく発売されたモデルには見られません。この時期に公害防止を目的とした硝材成分の規制が始まっていますが、かなり長期の経過措置が認められていたのか、1973年までに発売された放射能レンズの一部は1975年~77年ぐらいまで(小西六写真工業では1985年頃まで)トリウムガラスのまま生産・販売を継続していたようです。
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, non-Radioactive), F1.4
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, non-Radioactive), F2.0
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, non-Radioactive), F2.8
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, non-Radioactive), F5.6
オリンパスは1975年11月、世界で初めてTTLダイレクト測光を実現した一眼レフ「OM-2」を発売しましたが、ズイコー交換レンズ群の鏡胴デザインが変更されたのはこれよりかなり遅かったらしく、フィルター枠が銀枠ではなく黒枠になったのは、おそらく1977年の後半以降と思われます。OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 もレンズ銘はそのままで黒枠に変わるのですが、その変わり目のシリアルナンバーがはっきりしません。ネット上の中古製品画像を見たところ、シリアルナンバー 532577 の個体(archive.today)は銀枠で、シリアルナンバー 554580 の個体(archive.today)は黒枠であることから、シリアルナンバー 54万台前後付近で銀枠から黒枠に切り替わったものと推測します。
ですが、このレンズが変わったのはフィルター枠の色だけではありませんでした。
まず黒枠モデルで目立つ違いは、レンズの長さが長くなったことです。銀枠モデルはマウント面からフィルター枠先端までの長さが公称 36mm、手持ちの銀枠の個体2本を距離指標を無限遠に合わせた状態で実測したところ、36.8~37.0mm でしたが、黒枠モデルを同じ条件で実測したところ、39.8mm ありました。これは単に鏡胴だけ長くなったのではないことは、両者を並べてみると前玉前面の凸面中心部が、黒枠モデルの方が前に出ていることから分かります。質量は銀枠・黒枠とも公称 230g ですが、実測では銀枠が 227g、黒枠が 229g です。
両者を並べてみると、もう一点分かります。前玉前面の凸面の曲率が違い、黒枠モデルの方が曲率が強いのです。これは光源をレンズに当てて反射像を見ても分かります。銀枠モデルと黒枠モデルでは、反射像の出方が大きく違うのです。
長さについて、もうひとつ。レンズマウント外刃の後面から後玉支持枠先端までの長さも違います。銀枠モデルが 1.2mm なのに対し、黒枠モデルは 2.0mm と、0.8mm 長くなっています。つまり、黒枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は銀枠モデルよりバックフォーカスも短くなり、光学系の全長自体が長くなっているのです。
さらに、黒枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 が現役製品だった同時代の出版物を調べてみて、レンズ構成図にも違いがあることが分かりました。『アサヒカメラ1972年10月号』の「ニューフェース診断室」に掲載されていた銀枠モデルの構成図では、第4群の接合面が物体側に向かって凹面でしたが、『カメラ毎日別冊 カメラ・レンズ白書 1979年版』(毎日新聞社)の p.85 に掲載されている構成図は、第4群の接合面が物体側に向かって凹ではなくなっています。
なお、『アサヒカメラ1979年4月増刊号』の「各社一眼レフ交換レンズ総カタログ」p.82 のこのレンズの項に
以上から、黒枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は、以前の銀枠モデルとは光学設計が異なっていると考えるほかありません。では、どんな改設計が行われたのでしょうか。
1975年6月14日、銀枠モデルと同じ中川治平氏の光学設計になる大口径標準レンズの特許が出願されました。特願昭50-72257のこの出願は、1976年12月20日に特開昭51-148421の番号で公開され、1983年4月11日に特公昭58-17929として公告、そして日本国特許第1185792号が成立しました。同設計の米国特許はNo.4094588(PDF)、ドイツ特許はDE2626336です。
特公昭58-17929の記述を見てみます。
特公昭58-17929の記述から、この改設計は、コマフレアの除去と、球面収差を抑え、同時に波長による球面収差の違いを抑えること、および撮影距離の違いによる収差の変動を抑えることを目的としていたことが分かります。また、特公昭58-17929記載の球面収差図は特公昭50-35813とはやや異なり、g線とd線の曲線がよく揃い、『アサヒカメラ1972年10月号』ニューフェース診断室で実測・掲載されたS字カーブのアンダーコレクションの補正状態によく似ています。実際の製品でもこのアンダーコレクションの球面収差が維持されていたらしいことが、『カメラ毎日別冊 カメラ・レンズ白書 1979年版』p.85 の、
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Black filter mount), F1.4
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Black filter mount), F2.0
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Black filter mount), F2.8
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Black filter mount), F5.6
鏡胴デザインを銀枠から黒枠に変更した理由を、米谷美久氏は『一眼レフ戦争とOMの挑戦』 p.119~120 に、次のように書いています。
G.ZUIKO AUTO-S 55mm F1.2 も同様に、銀枠から黒枠に変わる際に光学設計が変更されています。前期・銀枠モデルは特公昭49-27699(1970年5月15日出願)、後期・黒枠モデルの設計は特開昭50-124632(1974年2月14日出願)で、いずれも同じく中川治平氏の設計です。
F.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.8(5群6枚)も、銀枠モデルと黒枠モデルでは各エレメントの曲率が異なり、2枚目と3枚目の間の空気レンズの形状も異なることから、やはり光学設計が変更されていると考えられます。F.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.8 の後期・黒枠モデル(51.6mm F1.84)は『アサヒカメラ1979年9月号』でテストされ、記事及びそこに掲載されたレンズ構成図・収差図・解像力表・MTF は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 オリンパスの軌跡』 p.118~120 に再録されています。記事では開放時の画質の甘さと像の流れが指摘され、コマ収差の影響が推測されています。一般に、OMシステムの普及価格帯で企画されたレンズは、この F.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.8 のほか ZUIKO AUTO-S 40mm F2(『アサヒカメラ1984年1月号』でテスト、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 オリンパスの軌跡』 p.141~143 に記事・収差図・MTFなど再録、非常に低いコントラスト(開放時に 30本/mm のコントラスト減少率が、放射方向は画面中心から 2mm~15mm で、同心方向は同じく 2mm から画面端まで 20% を大きく割り込んで非常に低い)と縦方向の色収差が指摘され、
ちなみに、ZUIKO AUTO-S 40mm F2(1983年4月発売・1988年販売終了、6群6枚、41.2mm F2.0、今井利廣氏設計)の光学設計は特開昭56-59216(1979年10月18日出願・日本国特許第1535463号)で、この設計を一言で表すと、1979年11月発売の小西六写真工業・KONICA HEXANON AR 40mm F1.8(5群6枚、41.4mm F1.83、下倉敏子氏設計、1977年6月23日出願・特公昭56-46128・日本国特許第1105243号)のバックフォーカスを延長した設計と見ることができます。これらの、前群のパワー配置を凹を先行させて凸凹凸とすることで、1枚目と2枚目の合成パワーを負としてガウス前群にレトロフォーカスの要素を持たせた構成=バックフォーカスを稼いで一眼レフ用ガウスタイプの短焦点化を可能にしたレンズ構成は、1975年6月18日出願のソ連特許SU531115(該当特許の Google Patents による英訳)に始まると言えます。そしてこの構成は、現行の COSINA Voigtländer ULTRON 40mm F2 SL ⅡS Aspherical に引き継がれていますし、同じく現行製品の Canon EF40mm F2.8 STM のレンズ構成も、この構成のバリエーションと見ることができます。なお、HEXANON AR 40mm F1.8 は『アサヒカメラ1980年1月号』でテストされ、記事及びそこに掲載されたレンズ構成図・収差図・解像力表・MTF は『カメラドクター・シリーズ6 カメラ診断室 アサヒカメラ連載』(朝日ソノラマ)p.137~138 に再録されています。
ZUIKO AUTO-S 40mm F2 について、OMマニア などが流布している生産数3,000本とする説はデマです。All About Photographic Lenses.は ZUIKO AUTO-S 40mm F2 の生産数を 10,700本としています。OMマニア は他にも根拠の怪しい記述が多く、その作成・運営目的は
モノコートだった黒枠の OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は、NEW OM-1、NEW OM-2(いずれも1979年3月)や OM-10(1979年6月)の発売より少し遅れて、1979年の夏頃にマルチコーティングを施されて、名称も OM-SYSTEM ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4 に変わりました。ズイコー交換レンズ群は広角や望遠にF2の明るさのレンズが揃っていて、それらについてはかなり早い時期からマルチコーティングが施されていましたし、50mm F3.5マクロのマルチコート化も既に行われていましたが、標準レンズや価格を抑えたモデルのマルチコート化は、他社に比べてかなり遅いと言えます。しかしながら1970年代後半には、1976年4月23日の Canon AE-1 発売(ボディのみの価格 5万円)に端を発して泥沼化していった低価格競争で体力を消耗した企業も多く、10面中8面がモノコートのミノルタ MD W.ROKKOR 35mm F2.8(5群5枚、1977年)のように、マルチコーティングに対して腰が引けたところも多数現れていました。
黒枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 と ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4 は、それぞれ手元の個体を実測したところ、外形寸法・質量とも全く同じでした。光源の反射像を観察すると、コーティングの違いによる色の違いはありますが、反射像の出方そのものに大きな違いは見つけられませんでした。
ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4, F1.4
ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4, F2.0
ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4, F2.8
ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4, F5.6
OM-SYSTEM ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4 は、おそらく1982年に OM-SYSTEM ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 へと名称が再び変わります。この ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の取扱説明書に記載されているレンズ構成図は、黒枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の構成図と同じです。その後、ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は1990年頃に販売を終了します。レンズ銘は変わっても、黒枠 G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の光学設計は最後まで引き継がれていたようです。
銀枠の M-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 から最終モデルの OM-SYSTEM ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 まで、光学設計の違いから前期型と後期側の2バージョンに分けられ、前期型はトリウムレンズか否かで2バリエーションに、後期型はモノコートかマルチコートかで2バリエーションに分けられます。後期型の、特にマルチコート化されたバリエーションでは、現存する中古の個体に程度の良いものがかなり少ないようです。
前期型・トリウムレンズ : 全長 37mm(公称 36mm)
銀枠 M-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (1972年7月1日発売)
銀枠 OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4(1973年5月末から)
前期型・非トリウムレンズ : 全長 37mm(公称 36mm)
銀枠 OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4(変更時期不明)
後期型・モノコート : 全長 40mm(公称 39~41mm)
黒枠 OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4(1977年と推定)
後期型・マルチコート : 全長 40mm(公称 39~41mm)
黒枠 OM-SYSTEM ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4(1979年夏頃から)
黒枠 OM-SYSTEM ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (1982年と推定)
銀枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 と黒枠モデルで長さが違うことは、Vintage Camera Lenses や Olypedia、Photography in Malaysia など、指摘しているところはいくつかありますが、この事実から光学設計の変更をも指摘されているのは、クラカメと旅(OM標準レンズ)のみでした。ファンサイトとしてよく知られていて、検索でも上位でヒットする OMマニア や オリンパスOMファン、これからもOM、OM推進委員会 などは、見た目の違いに注目して細かくバージョン分けされているにもかかわらず、もっと簡単に分かる長さの違いや反射像の違いには気付けないままで、当然ながら光学設計の違いも指摘できていません。
最終モデルの ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の販売終了が一昔前のこととなった2001年11月、カメラやレンズについての文筆活動でも著名な赤城耕一氏(@summar2)は、双葉社から『使うオリンパスOM』を上梓されました。同書 p.52 において赤城先生におかれましては、わずかな補正不足を保ってS字状カーブを描くアンダーコレクションの球面収差を持つ G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 を、かくの如くご紹介あそばされていらっしゃいます。
『アサヒカメラ ニューフェース診断室 オリンパスの軌跡』の巻頭 p.4~11 の記事「OMシステム大図鑑」の書き手は赤城耕一氏、p.18~20 の「オリンパスOM-1徹底解剖」の書き手も赤城耕一氏です。ですから、『使うオリンパスOM』執筆時の赤城耕一氏には、『オリンパスの軌跡』に再録された測定データに接して確認する機会が十二分にあったはずなのです。
赤城耕一氏は新製品のファーストレビューのほか、クラシックカメラやオールドレンズに関する著書が大変に多く、氏の写真作品はファーストレビューやカメラ・レンズ本でしか見たことがないという方も大勢いらっしゃると思います。しかしながら赤城耕一氏単独の著書は信憑性・信頼性に疑問符を付けざるを得ず、資料とするのは躊躇われます。
かつては、数多くの交換レンズや各種アクセサリーを揃えて多彩な撮影用途に対応可能なカメラを「システムカメラ」という和製英語で呼び、1960年代から70年代にかけて、各社ともシステムの拡充に力を入れていました。藤田直道氏は『アサヒカメラ1979年4月増刊号』の記事、「35㍉一眼レフ白書・全システム点検とその魅力」(p.37~73)で「システムカメラ」の語について、
「システムカメラ」というと、“何でも撮れる万能カメラ” とする捉え方が一般的でしたが、米谷美久氏は OMシステムを違う考え方で構築していきました。同じく『アサヒカメラ1979年4月増刊号』掲載の「座談会・各社設計、開発技術陣が語る最新一眼レフの性能比べ」(p.97~105)の中で、米谷美久氏(オリンパス光学 研究開発本部次長)と 倉本善夫氏(ミノルタカメラ 開発部次長・第一開発部門長)は、次のように語っています(肩書きは1979年3月当時)。
オリンパスは、2001年に OM-3Ti と OM-4Ti BLACK の販売を、2002年に OMシステム残存全製品の販売を終了して、35mm判レンズ交換式カメラ市場から完全撤退しました。20世紀末には、1980年代半ばから後半にマウントを一新してAF一眼レフを発売したミノルタやキヤノンはもちろんのこと、ニコン、旭光学、京セラもAF一眼レフを開発・販売していました。ひとり、オリンパスのみがレンズ交換式一眼レフのAF化移行に失敗してシェアを失い、ついに事業撤退に至ったものです。
1970年代後半、オリンパスは、ライツ・コレフォト特許にも米ハネウェルのストーファー特許やオガワ特許にも抵触しない独自のAF技術を開発して、商品化を目指した開発投資を積極的に行っていました。ところが、1979~80年にかけてのこと、その技術の社内デモンストレーションを行ったところ、当時の研究開発本部長氏(この時期は米谷美久氏はまだ研究開発本部次長です)の顔にだけピントが合わないという結果が出てしまい、これに研究開発本部長が立腹、AF開発担当者と深刻な感情的対立に発展してしまいます。これに嫌気が差したAF開発担当者は辞表を提出、人事担当の役員は慰留することなく、これをあっさり受理してしまいました(朝日新聞社刊『国産カメラ開発物語』25話「ピント合わせの奥深さ」冒頭 p.170~172)。オリンパスの当時のAF開発はこの担当者がほとんど一人で担っていたため、オリンパスはこの事件によって独自AF技術と開発リソースを喪失しました。
1979年は、ハネウェルが78年に開発した一眼レフ用の位相差AFセンサーモジュール「TCLモジュール」を日本のカメラメーカー各社に売り込み始めた年です。オリンパスはハネウェルの技術に賭けて TCLモジュールを採用、ハネウェルでの TCLモジュールの量産が軌道に乗った1982年の11月に、専用のAFズームレンズ「ZUIKO AUTO-ZOOM 35-70mm F4AF」を装着するとAF動作する「OM30」を発売。1986年にはやはり TCLモジュールを使った「OM707」を、9月にフォトキナで発表、11月に発売しました。OM707 のAF性能は、暗所でもイルミネーターが使える近距離では先に発売されていたミノルタ α-7000 といい勝負でしたが、イルミネーターが使えない距離では惨敗。加えて、AFレンズではAF駆動時にピントリングを操作されてしまうとAF駆動メカニズムが破損しかねないとしてピントリングを廃止し、MF時にはボディ背面のスライドノブを操作して、ボディ内蔵のAF駆動用モーターを動作させる機構(パワーフォーカス、略して "PF")を採用。ところが、このパワーフォーカス機構の出来が悪く、MF時にピントが来たと思った瞬間にスライドノブから指を離してもレンズが少し行きすぎてしまい、MFでピントを合わせるのが非常に困難なカメラに仕上がってしまいました。OM707 発表時、取締役に昇格していた米谷氏が「こういうオートフォーカス機は僕の趣味ではないのだが……」と弁解しきりだったという逸話を、小倉磐夫教授は『新装版 現代のカメラとレンズ技術』(写真工業出版社)の p.240 に記しています。前任の開発本部長がやらかしたせいで…などとは、大人のビジネスマンが口にできようはずもありません。
1988年2月には、TTL位相差フォーカス検出センサーを国内電機メーカーから調達してフォーカスエイド機とした「OM101 POWER FOCUS」を発売。パワーフォーカス機構は大幅に改良されましたが、AFは搭載されませんでした。当初からマニュアルフォーカス機として開発したものと公式にはアナウンスされましたが、ハネウェル提供のノウハウが使えない他社製センサーを用いてレンズ交換式AF一眼レフにまとめ上げられるだけの開発リソースが、当時のオリンパスにはなかったのだろうと推測します。その後オリンパスは、ミノルタとハネウェルのAF技術を巡る特許紛争の結果を受けて、1992年9月24日に、3,470万ドル(当時の為替レート 1米ドル≒122円で換算して 42億3,300万円相当、『新装版 現代のカメラとレンズ技術』 p.254 表1「ハネウエル特許事件・和解メーカー15社と和解金額」より)の和解金を支払うことで、ハネウェルと和解に至りました。
『一眼レフ戦争とOMの挑戦』に OM30 の記述は p.206 右段にわずか9行、しかもAF機能には全く触れていません。OM707 と OM101 POWER FOCUS に至っては1字もなし。このことから、米谷氏にとってオリンパスのAF技術開発の経緯が思い出したくもない忌まわしい黒歴史だったことが伺われます。
このレンズを設計した中川治平氏は、1977年にオリンパスを退社し、中川レンズデザイン研究所を設立されました。小倉磐夫・東京大学名誉教授は『カメラと戦争』(朝日新聞社)で、レンズ設計者の育成に尽力した功績者として、MAMIYA-SEKOR 80mm F2.8 を設計し改良を続けたことでも知られるマミヤ光機の岡崎正義氏と、そして、この中川治平氏の二人を挙げています。中川氏の薫陶を受けたレンズ設計者は非常に多いそうですが、特にシグマの設計能力の向上に大きな功績があったといいます。事実、Google Patents で Inventor のキーワードを「Jihei Nakagawa」として検索すると、オリンパスのほか、シグマの特許がたくさんヒットします。
1990年、ライカカメラ社はシグマの SIGMA 28-70mm F3.5-4.5UC(¥35,000、8群11枚)を、光学設計はそのままで鏡胴デザインのみ異なる VARIO-ELMAR-R 28-70mm F3.5-4.5 としてOEM供給を受けて、シグマの約5倍の¥165,000 で発売しました。『カメラと戦争』朝日文庫版 p.165 に曰く、
ガラスモールド非球面レンズの生産技術と非球面の精密計測技術を開発・確立したパナソニック(2008年10月から。旧社名は松下電器産業株式会社)も、中川治平氏の指導を受けた企業の一つです。1980年、松下電器産業がレンズ設計グループを立ち上げるためにレンズ設計技術の指導者を求めて小倉磐夫教授に接触した際、中川氏を推した小倉教授は、その理由に、中川氏の設計実力は世界の五指に入ると評価していたことに加えて、後進に技術の伝承を繋いでいくことが進歩に繋がるという信念の持ち主であることを挙げていたと、パナソニックの関係者は『非球面モールドレンズに挑む!』(日刊工業新聞社)で伝えています。
中川氏が松下電器のレンズ設計を指導する中で提示した試案に、従来なら13~15枚のレンズ構成となる6倍ズームレンズを、非球面を3面導入して9枚に減らしたものがあったとのことです。特許出願はされませんでしたが、この設計案は世界初の非球面ズームレンズの実設計だったと見られています。中川氏の指導を受けた松下電器産業は、1990年6月にビデオカメラでは初めて非球面レンズを採用して、ガラスモールド非球面レンズ2枚を使ったズームレンズを搭載した「NV-S1」“ブレンビー”を発売、2001年7月24日にはライカカメラ社との提携を発表しました。
2018年9月25日に発表されたパナソニック、シグマとライカカメラ社の「Lマウントアライアンス」も、遡って見てみれば、中川治平氏の指導の賜と言えるのかもしれません。
1972年に銀枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 が発売された当時、すなわち、Carl Zeiss CONTAX Planar T* 50mm F1.4 が発売される1975年11月より前に、オリンパスのほかに、国内他社からも過剰補正型の設計を脱した標準レンズがいくつか出てきました。1969年10月21日発売の東京光学・UV TOPCOR 50mm F2(4群6枚)、1972年9月の富士写真フイルム・EBC FUJINON 50mm F1.4前期型(6群7枚)、1973年4月のミノルタ・MC ROKKOR-PG 50mm F1.4(5群7枚)で、オリンパス以外はレンズ最外縁でほぼ完全補正とするシンプルなフルコレクションにまとめていました。これに対し、同じ時期のツァイスの HFT Planar 50mm F1.4 は過剰補正型(オーバーコレクション)の日本的な解像重視設計だったことは以前にも書いたとおりですし、HFT Distagon 35mm F2.8 や Planar 50mm F1.8(HFTではないモノコートモデル、ドイツ特許DE2114176・英国特許No.1339225・特開昭47-37418・特公昭51-21575・日本国特許第847016号)も、やはりオーバーコレクションの解像重視設計、CONTAX Planar T* 85mm F1.4(ドイツ特許DE2315071・米国特許No.3948584(PDF)・特開昭50-8527)も、オーバーコレクションタイプです。
しかし、東京光学は1974年4月の HI TOPCOR 50mm F2(4群6枚)で、富士写真フイルムも1974年4月の EBC FUJINON 50mm F1.4後期型(6群7枚)で、ミノルタは1977年の MD ROKKOR 50mm F1.4前期型(5群7枚・フィルター径55mm)で、それぞれ過剰補正型に戻りました。1970年代の早い時期から35mm判一眼レフ用のF1.4クラス標準レンズを補正過剰に戻すことなくコントラスト重視を一貫して維持し続けたのは、国内メーカーでは、おそらくオリンパスのみと見られ、日独両国を通して見ても、エルンスト・ライツとオリンパスの2社のみと思われます。
現在、オールドレンズを愛好する人々の間では、しばしば “日本の6群7枚構成の標準レンズは CONTAX Planar T* 50mm F1.4 の模倣” などと言われます。なるほど、確かに Planar T* 50mm F1.4 を意識した設計があることは事実(例えば、ミノルタ・山口民和氏による設計の特開昭53-117420、1977年3月23日出願、実施例2・第3図・第4図が MD ROKKOR 50mm F1.4後期型・フィルター径49mm)ではありますが、それを大風呂敷を広げるようにして一般化するのは果たして適切と言っていいものかどうか、首を傾げるところです。
キヤノンの伊藤宏氏は、アサヒカメラ1993年12月増刊『郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編』掲載の座談会(p.119~129)で、
前述のライツとミノルタの提携の際、ライツは1970年に日本へトップの技術者を二人派遣して、日本の光学業界の技術水準を調査しています。その調査でライツは、日本の技術レベルはライツの水準と変わらず、レンズの性能は超一級で、特に小口径と望遠関係で優れており、一眼レフや量産システムも際だって優秀という結論に達しています(『ライカ物語 誰も知らなかったライカの秘密』 p.209)。その提携のもう一方の当事者であるミノルタ側では、年配の技術者の中に、レンズの相互乗り入れでミノルタ側に持ち出しがあっても恩返しするべきと考えて提携に好意的な人たちがいた一方、若手の技術者は冷ややかだったと伝えられます。ミノルタのレンズ設計者、小倉敏布氏は、ライツが欲しがるレンズは多いが、ミノルタが欲しいレンズはほとんどない、ライツには“書画骨董の類”は多いが没落ぶりは想像以上と感じたといいます(草思社 『めざすはライカ! ある技術者がたどる日本カメラの軌跡』 p.255~262・草思社文庫版 p.293~301)。これはツァイスではなくライツの話ですが、しかしこの通り、1970年代を迎えるよりも前に、日本のカメラ・レンズ業界はドイツを模倣する段階をとっくに卒業していたのです。
ライツだけでなく、ツァイスについても見てみましょう。まず、中川治平氏による CONTAX Planar T* 100mm F2(1980年発売、5群6枚・変形ガウスタイプ)の設計評を示します。
次いで、CONTAX Planar T* 50mm F1.4 も見てみます。Planar T* 50mm F1.4 の光学設計に当たる、カール=ハインリヒ・べーレンス(Karl-Heinrich Behrens)とエルハルト・グラッツェル(Erhard Glatzel)によるドイツ特許DE2232101C2(1972年6月30日 出願)・米国特許No.3874771(PDF)・特公昭58-57725(日本国特許第1233035号)から、この特許の引用文献を見ていくと、
米国特許No.2735340(1954年6月25日 出願)
イーストマン・コダック(Eastman Kodak): ジョージ・H・エイクリン(George H. Aklin)
米国特許No.2895379(1955年12月30日 出願)
テーラー・テーラー&ホブソン(Taylor, Taylor & Hobson): ゴードン・ヘンリー・クック(Gordon Henry Cook)
ドイツ特許DE1170157(1959年5月16日 出願)
カール・ツァイス(Carl Zeiss): ヨハネス・ベルガー(Johannes Berger),ギュンター・ランゲ(Günther Lange)
Contarex Planar 55mm F1.4(5群7枚)
特公昭41-17176(日本国特許第490982号、1963年2月18日 出願)
オリンパス: 坂元悟
G.Zuiko Auto-S 40mm F1.4(6群7枚)
特公昭42-11291(日本国特許第507997号、1964年2月4日 出願)
日本光学: 松浦睦彦
実公昭42-18597(実用新案登録第844450号、1964年11月12日 出願)
ドイツ特許DE1472185・米国特許No.3560079・英国特許No.1055222
特公昭42-25212(日本国特許第518412号、1964年12月27日 出願)
米国特許No.3451745・ドイツ特許DE1547118
旭光学工業: 風巻友一,高橋泰夫
ドイツ特許DE1277580(1966年1月22日 出願)
カール・ツァイス: ヘルムート・アイスマン(Helmut Eismann)
特公昭44-15515(日本国特許第583021号、1966年4月22日 出願)
キヤノン: 田島晃
特公昭45-39873(日本国特許第610313号、1967年4月28日 出願)
米国特許No.3519333
旭光学工業: 高橋泰夫
ドイツ特許DE1268873・米国特許No.3552829(1967年12月9日 出願)
ドイツ特許DE1269385・米国特許No.3552833(1967年12月30日 出願)
実公昭47-19025(実用新案登録第988843号、1968年6月3日 出願)
小西六写真工業: 木下三郎
HEXANON AR 57mm F1.2(6群7枚)
特公昭49-27699(日本国特許第764949号、1970年5月15日 出願)
米国特許No.3743387
オリンパス: 中川治平
G.ZUIKO AUTO-S 55mm F1.2 銀枠(6群7枚)
特公昭54-43386(日本国特許第1019833号、1970年12月25日 出願)
米国特許No.3738736
と、15の光学設計が引用または引用が指摘され、そのうち日本の設計は、5群7枚設計が1、6群7枚構成の設計が8、合わせて9と、全15の内の6割を占めています。このことから、ツァイスの Planar T* 50mm F1.4 の設計は、日本のレンズ設計の強い影響下にあると言っていいと考えます。事実、ツァイスは日本では特許庁に拒絶査定を突きつけられ、不服審判請求の後も、日本メーカーによる先行例の引用を次々と指摘され続けるなど特許権取得に大変に難渋しており、出願から特許が認められて登録されるまで、実におよそ11年もの長い歳月を要しています。
この6群7枚の変形ガウスタイプの構成について、日本国内のオールドレンズ関連のサイトでは、これにアルプレヒト=ヴィルヘルム・トロニエ(Albrecht-Wilhelm Tronnier)の5群6枚のレンズ名を与えて「ウルトロン型」などとする呼び方が見られますが、この構成が成立する過程にトロニエの設計の直接の関わりはなさそうです。ダブルガウスの第2群の接合メニスカスを分離した5群6枚構成は、オールドレンズを愛好する人々の間では驚天動地の革命的な一大パラダイム転換であったかの如くに非常に大袈裟に語られがちですが、しかしルドルフ・キングズレークは『写真レンズの歴史』(朝日ソノラマ)の p.123 で、その構成のレンズが1930年代初めに多数出てきたと、ごく短く、軽く流すように書いています。接合を分離してそれぞれの面に異なる曲率を与えれば収差がよりよく補正できることは既知の事柄だったようです。トロニエは1930年代半ばになって、そのアイディアを後追いした設計者の一人と見られます。
CONTAX Planar T* 50mm F1.4 の設計も、それに先立つヘルムート・アイスマンのドイツ特許DE1277580 も、確かに5群6枚の設計も引用してはいますが、共通するのはジョージ・H・エイクリンによる設計であり、ヘルムート・アイスマンの方はもうひとつ、ライツのウォルター・マンドラーとエーリヒ・ヴァークナー(Erich Wagner)のドイツ特許DE1064250(1958年7月21日出願)も引用しているものの、いずれもトロニエの設計は引用していません。
『写真レンズの歴史』は第14章に、光学ガラスやレンズの発展に寄与した設計者や製作者を選んで顕彰した「人物略伝」を記していますが、そこにトロニエの項はありません。
ダブルガウス第2群の接合メニスカスを分離して空気レンズを挟む手法を、コマ収差を補正する技術として確立したのは、ミノルタ(千代田光学精工)のレンズ設計者(後にキヤノンへ移籍)で収差論の大家としても知られた松居吉哉氏であり、トロニエではないとする考察が、『ミノルタかく戦えり』(朝日ソノラマ)p.130~136 に述べられています(SUPER ROKKOR 50mm F1.8、1957年発売、1956年7月31日出願・特公昭38-11587)。
トロニエが1950年に設計した Ultron 50mm F2(米国特許No.2627204・同No.2627205)がコマ収差を Biotar 58mm F2 のおよそ 1/5 に抑えられた理由を『カメラ及びレンズ』(共立出版)は p.202 で、Biotar と Ultron のコマ収差を比較した横収差図を、トロニエ自身が著した『Post war German lens design, progress in photography 1940 ~ 1950』の p.71 から引用しながら、重金属を含む新種ガラスの導入によるとしています。
ホレース・ウィリアム・リー(Horace William Lee)の1930年の設計に基づく Xenon 5cm F1.5(米国特許No.2019985 ・英国特許No.373950)は、ダブルガウスの最後の正レンズを2枚に分割して5群7枚構成としたガウスタイプの最初期の設計のひとつですが、1960年代初めになって、日本光学の脇本善司と清水義之の両氏によって、この構成がバックフォーカスの長い一眼レフで F1.4 の明るさの標準レンズを、58mm や 55mm にすることなく 50mm で実現できるものであると突き止められました(特公昭40-386、NIKKOR-S Auto 50mm F1.4)。
旭光学の風巻友一と高橋泰夫の両氏が出願した6群7枚構成の米国特許No.3451745 と、ヘルムート・アイスマンのドイツ特許DE1277580 を見ると、ともにオットー・ツィンメルマン(Otto Zimmermann),グスタフ・クライネベルク(Gustav Kleineberg),オイゲン・ヘルマニ(Eugen Hermanni)の3名による5群7枚の設計(ドイツ特許DE1045120 ・米国特許No.3012476)を引用しています。つまり、この6群7枚構成は5群7枚構成から派生して、その5群7枚の第2群の接合メニスカスを分離したものです。
なお、このオットー・ツィンメルマン他による特許を、『カメラマンのための写真レンズの科学』は Summarit 5cm F1.5 の設計としています(p.132)。これに従うなら、6群7枚構成に有名なレンズの名前を付けて呼びたいけれど日本のレンズ名では呼びたくない、舶来レンズの名前でないと絶対にイヤだというのであれば、ウルトロンにはご遠慮頂いて、「変形ズマリット型」あたりにしておくのが無難だろうと思います。ただし、写真撮影用レンズの光学設計や歴史を解説した書籍を見ると、5群6枚であれ5群7枚であれ6群7枚であれ、ダブルガウスの最後の正レンズを分割して2枚にした構成も、ダブルガウスの第2群の接合メニスカスを分離した構成も、「ダブルガウス」「ガウスタイプ」「ガウス型」ないしは「変形ガウスタイプ」「変形ガウス型」としか呼ばれていません。構成分類名称としての「ウルトロン型」とか「変形ズマリット型」などという呼称は存在しません。つまるところ、「ウルトロン型」であれ「変形ズマリット型」と呼ぶのであれ、または他のレンズ名を付けて呼ぶとしても、それらは学問的な裏付けを欠く、オールドレンズ・コレクターの自己満足的な呼び方でしかないことは自覚しておくべきと思います。
作例について。
オリンパスは、このレンズをフォーサーズやマイクロフォーサーズで使用する際の推奨F値を F2.8~F8 としていて、その範囲外での使用は勧められていません。範囲外のF値で撮影した画像は、レンズ設計時に想定されていない画質になっている可能性があります。この推奨F値は、あくまでもフォーサーズ、マイクロフォーサーズの場合に限られるものなので、35mmフルサイズ・デジタルカメラでの使用はF値にかかわらず想定外使用になると思われます。従って、これら非推奨の環境で得られた画質を以てレンズを評価することは慎重であるべきと考えます。
オリンパス株式会社は2020年9月30日、同社の映像事業を子会社の「OMデジタルソリューションズ株式会社」に吸収分割し、その株式の95%を、日本産業パートナーズ株式会社が設立する特別目的会社「OJホールディングス株式会社」に2021年1月1日付で譲渡することで合意した旨を発表しました。
謝辞:
Knights-Fear_Rna-(@RigelNightBug)様、ご紹介と過分のお言葉を頂き、ありがとうございます。
記憶カメラ(@KiokuCamera)様、ご紹介と過分のお言葉をありがとうございます。
ysk(@51vs49)様、高い評価を頂き、ありがとうございます。
サンド(@JuneUnknown)様、嬉しいお言葉と高い評価を頂いて、ありがとうございます。
コンまに(@sstylery)様、Canon FD50mm F1.4の調査結果をお教えくださってありがとうございました。それと、長文どうもすみません(^^;
伊藤浩一(@itokoichi2)様、ご紹介ありがとうございます。
OrdTea様、ご紹介ありがとうございます。
編集履歴:
2019年1月14日 公開
2019年2月16日 CHINON M-1 について追記
2019年2月23日 黒枠 G.ZUIKO銘の個体のシリアルナンバーについて修正・追記
2019年3月24日 NIKKOR-S Auto 50mm F1.4 についてほか加筆
2019年4月17日 ヨーロッパの高級ブランドの異常な値付け例と参考サイトを追記
2019年6月16日 特開昭53-117420について補筆
2019年6月29日 謝辞を記載、本文に若干の補筆と修正
2019年7月6・7日 Ultron 50mm F2 について加筆、出典資料を追記
2019年7月15日 松居吉哉氏について補筆
2019年7月26・27日 若干の補筆
2019年8月11日 F.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.8 後期・黒枠モデルほかについて追記
2019年8月17日 若干の補筆
2019年8月21日 ZUIKO AUTO-S 40mm F2 について補筆
2019年8月31日 フローティング機構について誤りを訂正
2019年9月16日 M-1 ブラックボディと OLYMPUS FTL について追記
2019年9月28日 石油危機のカメラ業界への影響について加筆
2019年10月9・10日 謝辞を追記
2019年10月10日 ドイツ特許DE2232101C2 の引用文献を修正
2019年10月19・23日 1980年代の業界動向ほかを追記
2019年10月26日 トリウムガラスを使用したレンズの生産・販売時期の誤りを修正
2019年11月3日 わずかに加筆
2020年1月8日 特公昭58-57725について補筆
2020年1月19日 カラーフィルムの色再現性と紫外線について加筆
2020年2月21日 謝辞を追記
2020年3月2日 中川治平氏の Planar T* 100mm F2 への評を追記
2020年5月2日 コンまに(@sstylery)様の調査とご指摘に基づき、FD50mm F1.4の構成の誤りを訂正
2020年5月11日 UV TOPCOR 50mm F2、同53mm F2 の実測値と出典を追記
2020年6月28日 FL50mm F1.4Ⅱ の特許文献を追記
2020年8月29日 謝辞を追記
2020年9月4日 OLYMPUS M-1 の量産開始日を追記
2020年9月9日 OLYMPUS OM-1(M-1) の未来技術遺産への登録を追記
2020年9月19日 鏡胴前面の銀枠を取りやめた理由を追記
2020年10月1日 オリンパスの映像事業譲渡の発表を追記
2020年12月3日 OLYMPUS M-1 の生産数に関するデマについて追記
2020年12月29日 ZUIKO AUTO-S 40mm F2 の生産数のデマについて追記
2021年1月23・27日 エルンスト・ライツからライカカメラ社に至る概略を追記
2021年4月17日 TOPCON SUPER DM の発売月の誤りを訂正
2021年4月23日 OLYMPUS M-1 の生産数に関するデマについて加筆
2021年5月19日 謝辞を追記
2021年5月28日 OLYMPUS M-1 の生産数のデマに触れた箇所に、「我楽多屋」「カメラのナニワ心斎橋本店」「クラシックカメラ モリッツ」のデマ記述ページへのリンクを追加
2021年6月6日 G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 付き OLYMPUS M-1 の発売時価格を追記
2021年6月12日 記述が修正された「カメラのナニワ心斎橋本店」ブログへのリンクを削除
2021年6月15日 高山仁(@takayamajinlens)様のツイートにより、特公昭54-43386の特許請求の範囲に当たるレンズを特定
2021年6月18日 OMシステム終焉の顛末を加筆追記
参考資料(順不同):
カメラマンのための写真レンズの科学《新装版》(吉田正太郎・地人書館・ISBN978-4-8052-0561-7 C3053 ¥2000E・1997年6月20日 新装版初版第1刷,2014年6月10日 新装版初版第5刷)
新装版 現代のカメラとレンズ技術(小倉磐夫・写真工業出版社・ISBN4-87956-043-X C3072 P3000E・1982年1月20日 初版,1995年10月17日 新装版第1刷)
朝日選書684 国産カメラ開発物語 カメラ大国を築いた技術者たち(小倉磐夫・朝日新聞社・ISBN4-02-259784-4 C0350 ¥1300E・2001年9月25日 第1刷)
カメラと戦争 光学技術者たちの挑戦(小倉磐夫・朝日新聞社/朝日文庫・ISBN4-02-261309-2 C0120 ¥580E・2000年9月1日 第1刷)
ライカとその時代(酒井修一・朝日新聞社/朝日文庫・ISBN4-02-261308-4 C0120 ¥880E・2000年9月1日 第1刷)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 ニコンの黄金時代① SP~F3「診断室」再録(朝日新聞社・ISBN4-02-272128-6 C9472 ¥1800E・2000年1月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 ニコンの黄金時代② F4~F100「診断室」再録(朝日新聞社・ISBN4-02-272129-4 C9472 ¥1800E・2000年1月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 ライカの20世紀(朝日新聞社・ISBN4-02-272132-4 C9472 ¥1800E・2000年7月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 キヤノンの軌跡(朝日新聞社・ISBN4-02-272139-1 C9472 ¥1800E・2000年10月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 コンタックスの軌跡(朝日新聞社・ISBN4-02-272141-3 C9472 ¥1800E・2001年3月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 オリンパスの軌跡(朝日新聞社・ISBN4-02-272145-4 C9472 ¥1800E・2001年8月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 ミノルタの軌跡(朝日新聞社・ISBN4-02-272146-4 C9472 ¥1800E・2001年12月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 ハッセルブラッド・ローライの名機たち(朝日新聞社・ISBN4-02-272151-0 C9472 ¥1800E・2002年3月1日発行)
MF一眼レフ名機大鑑 「ニューフェース診断室」再録 Asahi Camera special issue on Japan's distinguished manual focus SLR cameras(朝日新聞社・雑誌60033-82・ISBN4-02-272154-5 C9472 ¥2000E・2002年5月1日発行)
アサヒカメラ 1979年4月増刊号 35㍉一眼レフのすべて(朝日新聞社・雑誌01404-4・1979年4月5日発行)
アサヒカメラ 1993年12月増刊 [カメラの系譜]郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編(朝日新聞社・雑誌01404-12・T1001404122403・1993年12月20日発行)
アサヒカメラ 2013年8月号(朝日新聞社・雑誌01403-8・4910014030831 00829・2013年7月20日発売・2013年8月20日発行)
[新版]カメラマン手帳 Complete PHOTO dataBASE(朝日新聞社,キヤノン販売株式会社 協力・ISBN4-02-258478-5 C2372 P2000E・1992年3月30日 第1刷)
カメラドクター・シリーズ〔第1集〕 最新カメラ診断室(朝日ソノラマ・0072-003021-0049・1974年8月24日発行)
カメラドクター・シリーズ〔第2集〕 話題のカメラ診断室(朝日ソノラマ・0072-003022-0049・1974年8月24日発行)
カメラドクター・シリーズ〔第3集〕 カメラ診断室'76(朝日ソノラマ・0072-003047-0049・1975年11月30日発行)
カメラドクター・シリーズ〔第4集〕 カメラ診断室'77(朝日ソノラマ・0072-003055-0049・1976年11月30日発行)
カメラドクター・シリーズ5 カメラ診断室 アサヒカメラ連載(朝日ソノラマ・ISBN4-257-03173-5 C0072 ¥1600E・1983年11月30日発行)
カメラドクター・シリーズ6 カメラ診断室 アサヒカメラ連載(朝日ソノラマ・ISBN4-257-03174-3 C0072 ¥1600E・1983年12月31日発行)
クラシックカメラ選書-2 写真レンズの基礎と発展(小倉敏布・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12012-6 C0072 P2000E・1995年8月31日 第1刷)
クラシックカメラ選書-11 写真レンズの歴史 A History of the Photographic Lens(ルドルフ·キングズレーク Rudolf Kingslake・雄倉保行 訳・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12021-5 C0072 ¥2000E・1999年2月28日 第1刷)
クラシックカメラ選書-22 レンズテスト[第1集](中川治平,深堀和良・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12032-0 C0072 ¥1800E・2001年11月30日 第1刷)
クラシックカメラ選書-23 レンズテスト[第2集](中川治平,深堀和良・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12033-9 C0072 ¥1800E・2001年11月30日 第1刷)
クラシックカメラ選書-33 一眼レフ戦争とOMの挑戦 オリンパスカメラ開発物語(米谷美久・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12043-6 C0072 ¥1800E・2005年2月28日 第1刷)
クラシックカメラ選書-39 ミノルタかく戦えり(神尾健三・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12049-5 C0072 ¥1900E・2006年12月30日 第1刷)
クラシックカメラ選書-41 トプコンカメラの歴史 カメラ設計者の全記録(白澤章成・朝日ソノラマ・ISBN978-4-257-12051-3 C0072 ¥1900E・2007年4月20日 第1刷)
カメラレビュー別冊 クラシックカメラ専科No.9 35mm一眼レフカメラ(朝日ソノラマ・62469-44・1987年3月20日発行)
チノン(萩谷剛・p.89)
オリンパスM-1(佐伯恪五郎・p.101)
カメラレビュー クラシックカメラ専科No.20 オリンパスのすべて(朝日ソノラマ・62469-55・T1062469552208・1992年3月25日発行)
カメラ毎日 1979年11月号(毎日新聞社・雑誌02311-11・1979年10月18日発売・1979年11月1日発行)
カメラ毎日別冊 '71 カメラ・レンズ白書 優秀カメラ・レンズはどれか(千葉大学工学部 田村稔研究室 検討グループ・毎日新聞社・1971年5月15日発行)
カメラ毎日別冊 カメラ・レンズ白書 1979年版(毎日新聞社・雑誌02312-12・1978年12月31日発行)
カメラ毎日別冊 カメラ・レンズ白書[2] カメラシステムと交換レンズ(毎日新聞社・雑誌02312-12・1980年12月5日発行)
CAPA特別編集 カメラGET!スーパームック④ 実用中古標準レンズ100本ガイド(島田和也・学研・ISBN4-05-602301-8 C9472 ¥1400E・2000年11月発売)
めざすはライカ! ある技術者がたどる日本カメラの軌跡(神尾健三・草思社・ISBN4-7942-1256-9 C0034 ¥1800E・2003年11月7日 第1刷)
ライカ物語 誰も知らなかったライカの秘密 Leica im Spiegel der Erinnerungen(エーミール・G・ケラー Emil G. Keller・竹田正一郎 訳・光人社・ISBN978-4-7698-1410-8 C0098 ¥2500E・2008年10月7日発行)
写真工業別冊 復刻版 ライカの歴史(中川一夫・写真工業出版社・雑誌04420-11 T1004420113905・1994年11月30日発行)
カメラジャーナル新書別巻 ライカポケットブック 日本版 第二版(デニス・レーニ Dennis Laney・田中長徳 反町繁 訳・カメラジャーナル編集部・株式会社アルファベータ・ISBN4-87198-522-9 C0072 ¥2500E・2001年3月31日 第1刷)
レンズ設計のすべて[光学設計の真髄を探る](辻定彦・電波新聞社・ISBN4-88554-921-3 C3055 ¥3200E・2006年9月10日 第1版 第1刷)
非球面モールドレンズに挑む! ―歴史を変えたパナソニックの技術者たち―(パナソニック スーパーレンズ研究会 著・中島昌也,長岡良富 編・日刊工業新聞社 B&Tブックス・ISBN978-4-526-06836-2 C3034 ¥2400E・2012年2月28日 初版1刷)
光学の知識(山田幸五郎・東京電機大学出版局・ISBN4-501-60390-9 C3042 P3296E・1966年2月25日 第1版1刷,1996年11月20日 第1版19刷)
科学写真便覧 上 新版(菊池真一,西村龍介,福島信之助,藤澤信 共編・丸善株式会社・1960年6月15日)
写真技術講座1 カメラ及びレンズ(林一男,久保島信・共立出版・1955年11月25日 初版1刷,1968年2月5日 初版15刷)
カメラ・レンズ百科 撮影のためのメカニズム知識(写真工業出版社・ISBN4-87956-002-2 C3072 P2900E・1983年4月20日 初版,1991年3月20日 第3版)
シリーズ日本カメラ No.84 現像・引伸し入門(日本カメラ社・ISBN4-8179-5026-9 C2072 P1000E・1989年12月25日 初版発行,1990年3月30日 重版)
カメラ総合カタログ第91号(日本写真機工業会 宣伝専門委員会・1988年3月)
カメラ総合カタログ第103号(日本写真機工業会 宣伝専門委員会・1992年2月)
カメラ総合カタログ VOL.117(日本写真機工業会 宣伝委員会・2001年3月発行)
カメラ総合カタログ VOL.118(日本写真機工業会・2002年3月22日現在)
カメラ総合カタログ VOL.119(有限責任中間法人 カメラ映像機器工業会・2003年3月発行)
アトムレンズの研究 その違いはあったのか(安孫子卓郎・Amazon Kindle版・2015年9月)
オリンパスグループ企業情報サイト
企業情報
カメラ設計者 米谷美久 講演会(Web Archive)
カメラミュージアム:OMシリーズ
OMアダプター MF-1 / MF-2 の適合レンズと使用時の注意について
オリンパスの映像事業譲渡に関する正式契約締結のお知らせ
クラカメと旅
Olypedia
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ARTICOLI TECNICI DI ARGOMENTO FOTOGRAFICO by MARCO CAVINA
TEST n° 19 - OLYMPUS OM ZUIKO 55mm f/1,2 TESTATO
I 50mm PER LEICA A TELEMETRO
LEITZ SUMMILUX
LEICA NOCTILUX
「OLYMPUS OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4」分解・清掃、コトブキヤ「我那覇響」撮影 - ヨッシーハイム(Web Archive)
会計士によるバリューアップ クラカメ趣味
ニコンカメラの小(古)ネタ(Web Archive)
ニコンF2のライバル オリンパスM-1(Web Archive)
ニコンF2のライバル オリンパスM-1の三面図など(Web Archive)
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新製品メモ 「フジノンF1.2 50mm」(Web Archive)
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今、再び、「時の話題」レンズにも放射能(Web Archive)
456LABO
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Leica Lists
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50mm f/1.2 Noctilux
Xenon f= 5 cm 1:1.5
Summarit f= 5 cm 1:1.5
50mm f/1.4 Summilux-R I
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第四十九夜 Nikkor-S Auto 55mm F1.2(Web Archive)
アストロフォトクラブ(Astro Photo Club)
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光と電磁波とガラスの関係 - ガラスの豆知識 - AGC Glass Plaza
ガラスは紫外線を防ぐ - 中島硝子工業株式会社
パナソニック株式会社
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文部科学省:報道発表
酸化トリウムを含む光学ガラス片の保管について(コニカミノルタビジネスエキスパート株式会社 コニカミノルタ伊丹サイト) - 平成17年6月23日 文部科学省 科学技術・学術政策局 原子力安全課 原子力規制室
酸化トリウムを含む光学レンズ片の保管について(ペンタックス株式会社 ペンタックスオプトテック株式会社) - 平成17年9月28日 文部科学省 科学技術・学術政策局 原子力安全課 原子力規制室
酸化トリウムを含む光学レンズ片の保管について(コニカミノルタオプトプロダクト株式会社) - 平成17年10月6日 文部科学省 科学技術・学術政策局 原子力安全課 原子力規制室
国立研究開発法人 産業技術総合研究所(産総研):沿革
独立行政法人 国立科学博物館
昭和40年の1万円を、今のお金に換算するとどの位になりますか? : 日本銀行 Bank of Japan
年次統計
消える平安朝の大壁画 ホテルオークラ東京建て替え - NIKKEI STYLE
オリンパス、映像事業譲渡の正式契約を締結 - デジカメ Watch
ゴールドムンドGOLDMUNDの真実(おまけ)
2万円と140万円の機器の中身が同じ!? ピュアオーディオの謎 - やじうまWatch(Web Archive)
「宇宙からバクテリアまで」を標榜して開発が進められていた「M-SYSTEM」=マイタニ(米谷)・システムの構築もスタート。28mm から 300mm まで、フィルター枠の先端が銀色に輝く鏡胴デザインの交換レンズ14本が M-1 と同時に発売されました。標準レンズ「M-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4」は、その最初の14本のひとつです。
小型化を命題として開発が進められたMシステムは、レンズにも小型化を迫りました。Mシステム開発着手時に米谷美久氏から、画質を向上させつつ小型化するよう求められたレンズ設計部次長の早水良定氏は、大学で航空工学を専攻したものの戦後に技術者の職がなく、女子高の教諭を務めながら光学研究を学会に発表していたところ、その熱心さを買われてオリンパスにスカウトされたという人物で、鮮鋭な描写でハーフサイズとは思えない画質を実現した「オリンパス・ペン」(1959年10月)のレンズ、D.Zuiko 2.8cm F3.5 の設計者としても有名です。その早水氏の下でMシステム・ズイコー交換レンズ群の設計の中核を担ったのは中川治平氏で、G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 も中川氏が設計したレンズのひとつです。この G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 付きの OLYMPUS M-1 の発売時価格は 61,500円(M-1 ボディ ¥37,000、ケース ¥2,500、G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 ¥22,000)でした。
G.ZUIKO の「G」はアルファベットの7番目で、このレンズが7枚構成であることを示し、「AUTO」は自動絞りを、その後の「S」は "Standard"、つまり標準レンズであることを示します。フィルターアタッチメントサイズは 49mm、絞り羽根は8枚、最短撮影距離は 45cm です。G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は、ダブルガウスの最後の正レンズを2枚に分割し、2枚目と3枚目のレンズの間に空気レンズを挟んで6群7枚とした変形ガウスタイプです。フィルター枠が銀色なので、このモデルは「銀枠」または「銀縁」と呼ばれます。
この銀枠 G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の光学設計に当たる特許は1972年5月4日に特願昭47-44325の出願番号で出願され、1974年1月18日に特開昭49-5620が公開、1975年11月19日に特公昭50-35813が公告され、日本国特許第821334号として成立しました。なお、米国特許はNo.3851953(PDF)、ドイツ特許はDE2322302です。
特公昭50-35813には、こうあります。
ここで比較参照されている特公昭40-386とはニコンFマウントの NIKKOR-S Auto 50mm F1.4 で、つまりは「G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は NIKKOR-S Auto 50mm F1.4 より遙かに小さくなったにもかかわらず、ニッコールより画質が優れる」と公言しているようなものです。確かに、双方の特許掲載の収差図を見る限り、歪曲収差はともかく、球面収差と非点収差は特公昭40-386よりも特公昭50-35813の方が優秀です。
レンズ系全体の厚みは収差補正にとって重要な意味を持っており、特に大口径化につれて全長を長くしないと良好に収差補正ができないことが知られている。本発明の目的は収差補正を一層良好にしながら、その極限とも云える程その全長を短かくしたレンズを提供せんとするものである。
(中略)
本発明レンズにおいては、全長が短かくなることによって悪化する収差の補正は、各群レンズの屈折率を高いものとし、それにも拘らず曲率半径を比較的小さくすることによって達成している。(中略)
本発明レンズと同じタイプで、バックフォーカス、明るさ、画角も本発明レンズのものとほぼ等しい既に知られているレンズの全長Lは例えば、f=1.0,fB=0.75,F/1.4,2ω=46°のレンズではL=1.01であり(特公昭40ー386号参照)、(中略)これに対し本発明のレンズでは(中略)L=0.82723とレンズ長はきわめて短くなっており、従って周辺光量も非常に多い。
左 : G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4(銀枠) 右 : NIKKOR-S Auto 50mm F1.4
特許記載の球面収差図は g線(435.835 nm、青紫)と d線(587.56 nm、黄)の二つ、つまりアクロマート設計ですが、吉田正太郎氏はそのほかに F線(486.13nm、青)、e線(546.07 nm、緑)、C線(656.27 nm、赤)の球面収差も算出した上で、『カメラマンのための写真レンズの科学』(地人書館)の p.135 に、こう書いています。
発売がこのレンズより3年以上遅かった Planar T* 50mm F1.4 がズイコーより先のように書かれているのは、『カメラマンのための写真レンズの科学』ではズイコーの前の p.133~134 で Planar T* 50mm F1.4 を解説しているためです。構造はプラナーT*に良く似ていますが,ガラスはオハラ製です.前方から順に LaSF05, LaSF03, SFS3, SF11, LaSF03, LaK8, Lak8 です.
このレンズのバックフォーカスは74.1で,ツァイスのプラナーT*よりさらに長くなっています.
図4.52はズイコーF1.4の各色の球面収差です.C線の最上部が少し気になりますが,なかなか良好です.F1.5(h=33.3)まで絞れば完全です.
そして。
M-1 と M-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の発売後にこのレンズ(シリアルナンバー 100606)を購入してテストした『アサヒカメラ1972年10月号』(朝日新聞社、1972年9月18日発売)の「ニューフェース診断室」で、通産省工業技術院機械技術研究所の深堀和良氏が実測・作成した球面収差図は、『カメラマンのための写真レンズの科学』でのg線の図に似たカーブを描きました。
その収差図は、中心からF2.8に向かって-0.1mm程度の補正不足に傾き、そこからF2より外側までにかけては補正過剰側に戻ろうとしながらも-0.1mm弱の補正不足量をほぼ保ち、そして最外縁に向かって再び補正不足量がわずかに増すという複雑なカーブを描き、全域でわずかに補正不足を保つS字状曲線を示しています。それまでの国産一眼レフ用の大口径標準レンズでは、NIKKOR-S Auto 50mm F1.4 が典型ですが、レンズ最外縁では大きく過剰補正として、開放から1段ほど絞ると球面収差がほぼなくなる、いわゆる「解像重視設計」が普通でしたが、G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の球面収差は全く異なり、コントラストを重視したアンダーコレクションの収差補正になっています。
『レンズテスト[第1集]』 p.168 より
この球面収差を、「ニューフェース診断室」はこう評しています。
球面収差曲線は(中略)、ライカM5に付属のズミルックス50㍉F1.4のそれによく似た、ちょっと変わった形をしている。しかし収差量は全般的に少なく、そのためF5.6に絞ったときの焦点移動量も0.04㍉(後ピンに写る方向)と小さくてよい。
(中略)
このレンズは、球面収差曲線からも予想されるように、絞り開放でもハロが少ない。
『カメラドクター・シリーズ〔第1集〕 最新カメラ診断室』 p.56~57
アサヒカメラ1972年10月号 再録
ここで言及されたアサヒカメラ1972年10月号 再録
ライカM5に付属のズミルックス50㍉F1.4というのは、『アサヒカメラ1972年1月号』の「ニューフェース診断室」で Leica M5 とともにテストされたシリアルナンバー 2346125 の、後期型とか第2世代とか Type2 などと呼ばれているバージョンの SUMMILUX-M 50mm F1.4 で、設計はウォルター・マンドラー(Walter Mandler,ヴァルター・マントラー)、ドイツ特許はDBP1151132、米国特許はNo.3291553です。レンズ構成は数字上は5群7枚ですが、1959年の前期型(Type1)がダブルガウスの最後の凸レンズを2枚に分割しただけのオーソドックスな構成だったのに対し、1961年にシリアルナンバー 1844001 からスタートしたこの後期型(Type2)の光学設計は、前群は2枚目と3枚目を分離して空気レンズを挟み、後群はゾナーのような曲率の強い接合面(物体側に向かって強い凹面)を持つ正の接合レンズの前に接合凹メニスカスを挿入した構成の変形ガウスタイプとしていて、前期型とは非常に大きく異なります。さらに接合部のバルサムにはライツが開発した、330~395 nm の紫外線を吸収する薬剤“アプゾルバン”を配合して、カラーフィルム使用時の色彩の再現性を向上させています。にもかかわらず、光学設計を刷新していたことが公表されたのは1966年になってからでした。
普通の写真用レンズは紫外線を特にカットしない場合、短波長側はおよそ 350 nm あたりまで透過する(一般に、ガラスはおよそ 300~5000 nm の帯域を透過する)ことと、カラーフィルムは青に感光する層が近紫外線にも感光することから、被写体から入射する紫外線量が多い場合、紫外線をカットしないと、撮影された画像は青みが強くなって、色再現が損なわれることがあります。モノクロームフィルムも多くは近紫外線領域にも感度を持つため、紫外線をカットしない場合、紫外線量の多い被写体ではコントラストが落ちることがあります。
『レンズテスト[第2集]』 p.82 より
このような、球面収差をS字状カーブのわずかな補正不足とする方法は、二つあります。
ひとつは非球面の導入で、NOCTILUX 50mm F1.2(ドイツ特許DE1447227・スイス特許Nr.447644・米国特許No.3459468)、Ai Noct-NIKKOR 58mm F1.2、Canon FD85mm F1.2 S.S.C. Aspherical などがS字状カーブのアンダーコレクションになっています。
『レンズテスト[第2集]』 p.125 より
しかし G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は非球面を導入していません。NOCTILUX 50mm F1.2 の収差図は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ライカの20世紀』(朝日新聞社) p.214 に、FD85mm F1.2 S.S.C. Aspherical の収差図は、『レンズテスト[第2集]』(朝日ソノラマ)の p.129 に掲載されています。
もうひとつの方法は、レンズの収差を、意図的に発生させた高次収差で打ち消す、「高次の収差補正」という技術です。SUMMILUX-M 50mm F1.4後期型は第5群の、物体側に向かって凹の曲率の強い接合面で高次収差を発生させて、球面収差および波長による球面収差の差を補正しています(SUMMILUX-R 50mm F1.4 はこの手法を使わず、補正過剰量をごくわずかに抑えてほぼ完全補正としたシンプルなカーブになっています)。G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 も、おそらくこの技術です。ただし、この手法なら必ずアンダーコレクションになるわけではなく、Sonnar 50mm F1.5 や NIKKOR-S·C 5cm F1.4 は実測データを見ると非常に大きな過剰補正ですし、NIKKOR-S Auto 55mm F1.2 も補正過剰の解像重視設計です。この手法でS字カーブのアンダーコレクションにまとめている国産レンズは、この1972年の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 以前はマクロレンズ以外には、一般撮影用の大口径標準レンズでは例が非常に少なく、1953年に土居良一氏が設計した FUJINON 5cm F1.2(特公昭31-477・米国特許No.2718174)ぐらいではなかったかと思います。
Sonnar 50mm F1.5、NIKKOR-S·C 5cm F1.4 の収差図・MTFは『アサヒカメラ 1993年12月増刊 [カメラの系譜]郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編』(朝日新聞社)の p.73、p.78、FUJINON 5cm F1.2 の収差図・MTFは同書 p.77 に、SUMMILUX-R 50mm F1.4 の収差図は『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ライカの20世紀』 p.125 に、NIKKOR-S Auto 55mm F1.2 の収差図は『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ニコンの黄金時代① SP~F3「診断室」再録』(朝日新聞社)p.182 に掲載されています。
ですが、G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 のこの収差補正は、どうも意図して狙ってやったものではなかったようです。「ニューフェース診断室」での測定データについて、後に設計者の中川治平氏自らが『レンズテスト[第1集]』(朝日ソノラマ)の p.168~169 で次のように解説しています。
コンパクト化を実現するには、屈折率の高いガラスに強い曲率を与えるほかない。しかし曲率を強くするほど収差も増大するので、収差を抑えるには曲率を弱くしたいが、曲率を弱くするとレンズの全長が長くなり、コンパクト化は図れない。コンパクト化を達成するには屈折率の高いガラスと強い曲率は避けようがなく、その収差を補正するために、曲率の強さを逆手に取って“毒を以て毒を制する”手法、「高次の収差補正」を行わざるを得なかったと見るのが妥当だろうと思います。ボディーに合わせ、当然レンズもコンパクトさが要求される。6群7枚構成の変形ガウスタイプの本レンズは、レンズ先頭からフィルム面までの長さ約81mm。これは同仕様レンズが85mm以上であるのに比べて5mmほど短い。
ガウスタイプの標準レンズの設計は100m走に、ズームレンズや広角レンズの設計はマラソンに例えられる。マラソンは大幅な時間短縮が期待できるが、短距離で0.1秒の短縮は容易でない。ガウス型標準レンズを5mmもコンパクト化するのは大変なことである。
断面図は全体に曲率が強いようすを示している。また、球面収差カーブの特異な形状はコンパクト化の苦悩を物語っている。
アサヒカメラ「ニューフェース診断室」の、球面収差以外についての指摘も以下に抜粋しておきます。
画角は公称47度で、最短撮影距離は45㌢。
焦点距離と明るさの実測値は51.6㍉F1.4で、問題はない。
(中略)
放射、同心の両像面は(中略)、半画角20度へんで交わらせてあり、両像面の開き(非点隔差)は小さい方に属する。平均像面は内側に湾曲しているが、その程度も軽微である。
像のゆがみを表す歪曲は(中略)、画面スミ部でマイナス2.0%のタル型で、タル型に許し得る限度に達している。また画面周辺部に行くにつれ、明るさが減る割合を示す開口効率は、画面対角線90%の地点で33%、これは絞り開放の場合、この地点の明るさが画面中心部のそれの3分の1以下に落ちることを意味するが、F1.4の標準レンズとしてはまあまあといったところだろう。
(中略)購入レンズには工作精度の不足にもとづく偏心があって、開放で写した画面の左端の像があまくなったのは残念である。
ほとんど完全な平面に保持されたミニコピーHSフィルムを使って測定した撮影解像力の平均値は(中略)、なかなかよい値を示している。これで偏心さえなかったら、もっとすばらしいデータが得られただろう。とくにF5.6に絞った場合の撮影解像力はきわめて高く、この絞りで実写した写真もたいへんシャープであった。
鏡胴のマウントはバヨネット式で、ボデーへの着脱は簡単である。深度確認用の絞り込みボタンはレンズ側につけられている。鏡胴に刻まれた撮影距離目盛りや絞りの数字は大きくて見やすいが、絞り目盛りに対向する指標だけは、小さすぎて見にくい。
レンズ本体ではないが、黒色プラスチック製のレンズ・キャップがスプリング式に着脱されるのはよいとして、レンズの前ネジとの結合部分が少ないため、指がちょっと勘どころに触れるとすぐはずれ落ちるというのはよくない。
『カメラドクター・シリーズ〔第1集〕 最新カメラ診断室』 p.56~57
アサヒカメラ1972年10月号 再録
記事にアサヒカメラ1972年10月号 再録
ミニコピーHSフィルムとありますが、これは「ミニコピーHRフィルム」の誤植と思われます。
開口効率 33% という数値は、特公昭50-35813の
従って周辺光量も非常に多い。からは掛け離れているように思いますが、特許文書中で比較されている NIKKOR-S Auto 50mm F1.4 の開口効率は、1962年に計測されたシリアルナンバー 320964(51.6mm F1.44)の個体が 32%、それが、1965年に計測された No.426101(52.3mm F1.44、焦点距離をわずかに伸ばした改設計)では 30% に落ちて、1971年に計測された No.1105846(51.6mm F1.41、一部のエレメントを高屈折率ガラスに変えて曲率や厚みが大きく変わった改設計)でも 30% ですから、それに比べれば周辺光量は多いと言えます。
1982年に発売された ZUIKO AUTO-S 50mm F1.2 も、『アサヒカメラ1983年3月号』初出の「ニューフェース診断室」を見ると、球面収差はやはり全域でわずかな補正不足のS字カーブを描いていて、同様の「高次の収差補正」を行っているようです。50mm F1.2 の開口効率は 36%と、銀枠 G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 に勝ります。ZUIKO AUTO-S 50mm F1.2 の収差図・MTFは『アサヒカメラ ニューフェース診断室 オリンパスの軌跡』(朝日新聞社)p.133 に再録されています。
NIKKOR-S Auto 50mm F1.4 の収差図は『レンズテスト[第1集]』の p.50、p.104、p.164 に、テスト記事は『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ニコンの黄金時代① SP~F3「診断室」再録』 p.41、p.72、p.94、p.102 に掲載されています。
NIKKOR-S Auto 50mm F1.4 の収差図は『レンズテスト[第1集]』の p.50、p.104、p.164 に、テスト記事は『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ニコンの黄金時代① SP~F3「診断室」再録』 p.41、p.72、p.94、p.102 に掲載されています。
また、この評で、テストされたシリアルナンバー 100606 の個体に偏心があったことが指摘されていますが、2枚目と3枚目を分離したガウス型レンズの構成について、キヤノンのレンズ設計者の辻定彦氏は『レンズ設計のすべて』(電波新聞社)の p.95 で、一般論としてこう解説しています。
これは、「6群7枚にすれば性能が向上することは分かっているけれど、2枚目と3枚目を分離すると、その部分で偏心を生じた不良品が発生しやすくなるので、量産時の品質のバラツキを避けるために5群7枚のままにしていた製品も多い」と解釈していいと思います。
レンズの分割に加えて、さらに高度の収差補正のために前群のメニスカス接合レンズを分離して空気レンズを導入することが行われるが、この部分は偏心精度が厳しくなり勝ちである。そこで設計性能ではハロが多くなり、多少劣ることを承知の上で、当たり外れをなくし最終製品性能を確保するため、敢えて接合のままとしているものも多い。
これで偏心さえなかったら、もっとすばらしいデータが得られただろう。と評された銀枠 G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4(No.100606)の解像力(コントラストがゼロになる解像限界、カットオフ周波数)ですが、絞り開放時に画面中心 180本/mm・全画面平均 112本/mm、F5.6時に画面中心 224本/mm・全画面平均 170本/mm と、偏心があるにもかかわらず高い数値を記録し、また、開放時・F5.6時いずれの場合も、「画面中心が最良となるピント面」と「画面全体が平均的に最良となるピント面」が一致しています。特に、開放時の画面中心の値は、解像重視の補正過剰型である Canon FD50mm F1.4(6群7枚、1971年3月1日発売)の開放時画面中心 200本/mm に迫る数値です。
FD50mm F1.4 の収差図・解像力表は『レンズテスト[第1集]』 p.158~159 に、テスト記事は『アサヒカメラ ニューフェース診断室 キヤノンの軌跡』(朝日新聞社)p.62~64 に掲載されています。ただし、両書に掲載のレンズ構成図は誤りです。なお、FD50mm F1.4 の光学設計は FL50mm F1.4Ⅱ(籾山喜久雄氏設計、1967年2月18日出願・特公昭48-10083・日本国特許第731456号)に同じです。
以上から、銀枠 G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4(No.100606)の数値をまとめておきます。
51.6mm F1.40
F5.6に絞ったときの焦点移動量 0.04mm(後ピンに写る方向)
歪曲収差 -2.0%(タル型)
開口効率 33%(画面対角線90%の位置)
解像力
絞り F1.4(開放)
中心部 180本/mm 平均 112本/mm (画面中心が最良となるピント面)
“画面全体が平均的に最良となるピント面”は“画面中心が最良となるピント面”に一致する。
絞り F5.6
中心部 224本/mm 平均 170本/mm (画面中心が最良となるピント面)
“画面全体が平均的に最良となるピント面”は“画面中心が最良となるピント面”に一致する。
F5.6の“画面中心が最良となるピント面”は、開放時のそれと一致する。
ちなみに、SUMMILUX-M 50mm F1.4(No.2346125)の『アサヒカメラ1972年1月号』初出の測定値をまとめると、以下の通りです。
51.6mm F1.44
F5.6に絞ったときの焦点移動量 0.04mm(後ピンに写る方向)
歪曲収差 -1.4%(タル型、半画角22.5°において)
開口効率 35%(画面対角線90%の位置)
解像力
絞り F1.4(開放)
中心部 160本/mm 平均 75本/mm (画面中心が最良となるピント面)
中心部 125本/mm 平均 98本/mm (画面全体が平均的に最良となるピント面)
“画面全体が平均的に最良となるピント面”は“画面中心が最良となるピント面”より
0.09mmレンズに近い位置にある。
絞り F5.6
中心部 224本/mm 平均 135本/mm (画面中心が最良となるピント面)
中心部 71本/mm 平均 150本/mm (画面全体が平均的に最良となるピント面)
“画面全体が平均的に最良となるピント面”は“画面中心が最良となるピント面”より
0.08mmレンズに近い位置にある。
F5.6の“画面中心が最良となるピント面”は、開放時のそれと一致する。
『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ライカの20世紀』 p.43~44 の記述に基づく
さて。西ドイツ、ケルンで1972年9月23日に開幕したフォトキナですが、その3日目、9月25日に事件が起こります。オリンパスの出展ブースにいた米谷氏の元に、ライツ社の代表を自称する3人が訪れて、M-1 のカメラ名はドイツの登録商標になっている Leica M3 に抵触しているとする口頭での抗議を行いました。しかしこれは筋の悪い主張で、商標の登録はアルファベット1字+数字1字では新規性がないとして受理されません。従ってそれぞれのカメラの商標は「M-1」「M3」ではなく、「OLYMPUS M-1」「Leica M3」ですから、そもそも抵触するはずがないのです。米谷氏はこのことをライツの3人に対して主張したものの、相手は聞く耳を持たず、強硬に抵触を主張しました。そこで、「M-1」の前に何かもう1字つけ加えるという打開策を提案したところ、3人は矛を収めて引き揚げていきました。
このとき「OLYMPUS M-1」は商標登録申請中で、後に登録されました。
この抗議の裏に何があったのかは全く不明です。ライツはこの年、1972年の6月に、1969年のフォトキナ会期中に交渉を始めて1971年に合意に達し契約に署名していたミノルタとの提携を正式に発表し、この時期は、"Leica MC"(M型ライカのコンパクト版)のコードネームでライツの“ヴィリー”ことヴィルヘルム・シュタイン(Wilhelm Stein)のグループが構想し開発していたレンジファインダー機、小型(Compact)で軽量(Light)な“コンパクト・ライカ”(Compact Leica)、価格も手ごろな“フォルクスライカ”を、ミノルタの提言で「Leica CL」(日本国内向けは「LEITZ minolta CL」)と名付けて、生産をミノルタが担当して発売する準備が進んでいた時期でもあります。小型・軽量のコンセプトを先に実現されたことに苛立ったのか、あるいは、LeicaⅢf と同じ横幅のカメラの名称に「M」を冠したことを、肥満体と化してしまった Leica M5 に対する当てつけと勘ぐったのかもしれません。エーミール・G・ケラーは、ライツも開発計画の再検討を迫られることになったと、『ライカ物語 誰も知らなかったライカの秘密』(光人社、p.214)に記しています。
この時期のライツは沈みゆく豪華客船のような混乱の最中にありました。1971年に発売した Leica M5 …その巨体が“弁当箱”と揶揄嘲笑されたレンジファインダー機ですが…は、開発にあまりにも時間がかかった上にコストも高すぎ(「ニューフェース診断室」に曰く、
新しい連続無段階式シャッターにせよ、付属のレンズにせよ、コストにかまわず最高最良の品質を追求している態度は、ドイツの技術者精神のひとつの表れ)、しかも売れ行きが発売当初から非常に悪く、1台作るごとに赤字が累積していく始末で、1975年に生産を打ち切らざるを得なくなりました。また、ライツに見切りを付けた技術者の退社が続き、社内に保管されていた資料なども多く流出したと伝えられます。その後、1978年には、ウィルド・ライツ・カナダで生産が始められた Leica M4-2 で、珍品ライカ、早い話が製造不良品が製品検査を通り抜けて出荷されてしまうという大失態を起こすに至ります。これはライカ研究家の中川一夫氏をして「ライカM4-2 と書いて、ライカM4マイナス2と読む」と嘆かせたほど(『ライカとその時代』朝日文庫版 p.343)です。しかしこれら事故品は当時のライカマニアがこぞって買い求めて、キレイに売り切っています。
事の顛末と名称変更のことは、フォトキナ終了後にオリンパスの常務会に報告されて了承されたものの、直後の企画会議では結論が出ず、名称立案小委員会が開かれることになりました。10月20日に開かれたその委員会の会議は議論百出で紛糾、名称変更の候補としてAからZまで全アルファベットを当てて検討して、激論の末に「UM」と「OM」が残り、最終的に「OM」が採択されました。この結論を受けて、1973年5月末から、カメラ名は「OM-1」、システム名称は「OM-SYSTEM」へと変更されました。銀枠の M-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 も銀枠のまま、光学設計も変わることなく、ただレンズ銘だけが「OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4」に変わっています。
M-1 から OM-1 への切替は、ブラックボディが先行しました。M-1 ではブラックボディは20台のみ生産され、すべてが著名人へ贈呈されました。うち1台はその後ボディを凹ませてしまい、修理されて OM-1 に変わったため、M-1 のブラックボディは19台しか存在しません。そのうち、何台が現存しているのかは不明です。
なお、『アサヒカメラ1972年10月号』で M-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 とともにテストされた OLYMPUS M-1(シルバーボディ)のシリアルナンバーは 109802 です。テストおよびテスト記事掲載までのスケジュールを推定すると、この個体が購入されたのは、遅くとも1972年8月末以前と思われます。つまり、M-1 は1972年7月1日の発売からおよそ2ヶ月の間に9,800台以上=1万台前後ないしはそれ以上の台数が市場に出たことが、このシリアルナンバーから分かります。シルバーボディの OLYMPUS M-1 については、OMマニア や 出品者のひとりごと‥ のほか、我楽多屋、クラシックカメラ モリッツ など、多くの有名な中古カメラ販売業者やオークション出品者が “数千台しか存在しない”、“5,000台のみ生産された”、あるいは “生産済の製品のみ流通を許された” などのレア感を煽る風説を流布していますが、それら風説は明らかにデマです。OLYMPUS M-1 シルバーボディは、これらデマで吹聴される過小な台数よりも桁違いに多く存在しており、また、M-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 も3万本を超える数が存在しています。これらデマを商品ページやホームページ,ブログ,SNSなどに掲載している業者・店舗・出品者は、正確な情報を顧客に伝える努力を怠っているか、詐欺的商法に躊躇がないものと見なさざるを得ません。
1972年にはチノンも6月にプラクチカマウント(M42マウント)の35mm判一眼レフ「CHINON M-1」(輸出用は「PRINZFLEX M-1」)を発売していますが、ライツがこのカメラ名にクレームを付けたかどうかは不明です。チノンは後に「CHINON CX」を出していますが、CHINON CX については、ライツにクレームを付けられるのを恐れて「CHINON M-1」を改称したとする説と、「CHINON CS」(多重露光レバーとバッテリーチェックボタンが省略されている)の上位機として発売されたとする説があります。
OLYMPUS M-1 発売の前年に、オリンパスはプラクチカマウントの一眼レフ「OLYMPUS FTL」を海外で発売しています。これは、M-1 が開発中なのにもかかわらず、当時のオリンパス経営トップの一人が独断で大学時代の同級生(社外)に話を持ちかけ、話を受けた人物が「一年間で作ってみせる」と豪語して設計を受諾、それがオリンパスの常務会で承認され、1969年6月2日の企画会議で正式に決定して開発が始まったものです。当初は1970年5月に量産を開始して1970年内に発売の予定でしたが、開発中に山積した問題の解決に時間を要して発売が大きくずれ込みました。M-1 開発にこのプロジェクトが悪い影響を及ぼさないようにオリンパスの金崎正春常務(当時、後に専務)が尽力したことが、『一眼レフ戦争とOMの挑戦』 p.123~125 に記されています。OLYMPUS FTL の生産にオリンパス本体は関わっておらず、子会社のオリジン光学(東京都調布市)が生産を担当しました。FTL用レンズは、Mシステム(OMシステム)のレンズとは光学設計も異なります。
国立科学博物館・産業技術史資料情報センターは2020年9月8日、OLYMPUS OM-1(M-1)を重要科学技術史資料(未来技術遺産)の第00289号に2020年9月15日付で登録すると発表しました。
なお、『アサヒカメラ1972年10月号』で M-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 とともにテストされた OLYMPUS M-1(シルバーボディ)のシリアルナンバーは 109802 です。テストおよびテスト記事掲載までのスケジュールを推定すると、この個体が購入されたのは、遅くとも1972年8月末以前と思われます。つまり、M-1 は1972年7月1日の発売からおよそ2ヶ月の間に9,800台以上=1万台前後ないしはそれ以上の台数が市場に出たことが、このシリアルナンバーから分かります。シルバーボディの OLYMPUS M-1 については、OMマニア や 出品者のひとりごと‥ のほか、我楽多屋、クラシックカメラ モリッツ など、多くの有名な中古カメラ販売業者やオークション出品者が “数千台しか存在しない”、“5,000台のみ生産された”、あるいは “生産済の製品のみ流通を許された” などのレア感を煽る風説を流布していますが、それら風説は明らかにデマです。OLYMPUS M-1 シルバーボディは、これらデマで吹聴される過小な台数よりも桁違いに多く存在しており、また、M-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 も3万本を超える数が存在しています。これらデマを商品ページやホームページ,ブログ,SNSなどに掲載している業者・店舗・出品者は、正確な情報を顧客に伝える努力を怠っているか、詐欺的商法に躊躇がないものと見なさざるを得ません。
1972年にはチノンも6月にプラクチカマウント(M42マウント)の35mm判一眼レフ「CHINON M-1」(輸出用は「PRINZFLEX M-1」)を発売していますが、ライツがこのカメラ名にクレームを付けたかどうかは不明です。チノンは後に「CHINON CX」を出していますが、CHINON CX については、ライツにクレームを付けられるのを恐れて「CHINON M-1」を改称したとする説と、「CHINON CS」(多重露光レバーとバッテリーチェックボタンが省略されている)の上位機として発売されたとする説があります。
OLYMPUS M-1 発売の前年に、オリンパスはプラクチカマウントの一眼レフ「OLYMPUS FTL」を海外で発売しています。これは、M-1 が開発中なのにもかかわらず、当時のオリンパス経営トップの一人が独断で大学時代の同級生(社外)に話を持ちかけ、話を受けた人物が「一年間で作ってみせる」と豪語して設計を受諾、それがオリンパスの常務会で承認され、1969年6月2日の企画会議で正式に決定して開発が始まったものです。当初は1970年5月に量産を開始して1970年内に発売の予定でしたが、開発中に山積した問題の解決に時間を要して発売が大きくずれ込みました。M-1 開発にこのプロジェクトが悪い影響を及ぼさないようにオリンパスの金崎正春常務(当時、後に専務)が尽力したことが、『一眼レフ戦争とOMの挑戦』 p.123~125 に記されています。OLYMPUS FTL の生産にオリンパス本体は関わっておらず、子会社のオリジン光学(東京都調布市)が生産を担当しました。FTL用レンズは、Mシステム(OMシステム)のレンズとは光学設計も異なります。
国立科学博物館・産業技術史資料情報センターは2020年9月8日、OLYMPUS OM-1(M-1)を重要科学技術史資料(未来技術遺産)の第00289号に2020年9月15日付で登録すると発表しました。
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, Radioactive), F1.4
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, Radioactive), F2.0
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, Radioactive), F2.8
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, Radioactive), F5.6
OLYMPUS OM-D E-M5 MarkⅡ(ISO 200, A mode)
Good Smile Company, 1/8 Scale “初音ミク V4X” (Hatsune Miku V4X)
この銀枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は放射能レンズ(トリウムレンズ)としても有名です。手持ちの個体(シリアルナンバー 156670)は、アトムレンズのページにも書きましたが、前玉側 6.55 µSv/h・後玉側 0.83 µSv/h のガンマ線を検出しました。ところが、この銀枠モデルは後に硝材の成分が変更されています。
手元にある別の銀枠の個体、シリアルナンバー 5092xx を計測したところ、前玉側 0.08 µSv/h・後玉側 0.09 µSv/h と、計測時にあらかじめ測っておいたバックグラウンド値(0.08 µSv/h)と変わらない数値を得ました。つまり、放射能レンズではなくなっています。また、写真家の安孫子卓郎氏の『アトムレンズの研究 その違いはあったのか』によると、銀枠のシリアルナンバー 326264 の個体の放射線量率は前玉側 3.26 µSv/h・後玉側 0.43 µSv/h と明らかにトリウムレンズなのに対して、銀枠のシリアルナンバー 508166 の個体は、前玉側 0.15 µSv/h・後玉側 0.09 µSv/h と、概ねバックグラウンド値と思われる低い数値になっています。
シリアルナンバー 156670 と同 5092xx のレンズの反射像を比べると、反射像の出方自体は特に違いが見られないことから曲率に目立った変更はないと思われ、しかし前玉の反射像の色がはっきり違う(No.156670 の酸化トリウムを含む前玉は反射像がオレンジ色に近く、No.5092xx の前玉側反射像は青みが強い)ことからコーティングに違いがある=硝材が透過しやすい色域に違いがあると思われ、このことから、光学設計はそのままで硝材の成分のみ変更されたと断定して、まず間違いないと考えます。安孫子卓郎氏も『アトムレンズの研究 その違いはあったのか』で、描写に
差異は感じられない。と報告されています。硝材の成分がいつ変更されたのかは、今のところ、シリアルナンバー33万台前後より後、50万前後より前のどこかで変更があっただろうという身も蓋もない推測以上はできかねます。
1973年までに発売が始まった日本製レンズには放射能レンズが多く見られますが、1974年以降に新しく発売されたモデルには見られません。この時期に公害防止を目的とした硝材成分の規制が始まっていますが、かなり長期の経過措置が認められていたのか、1973年までに発売された放射能レンズの一部は1975年~77年ぐらいまで(小西六写真工業では1985年頃まで)トリウムガラスのまま生産・販売を継続していたようです。
酸化トリウムを添加した硝材を用いたレンズについて、オールドレンズ関連のサイトなどでは妙な高評価が見られますが、酸化トリウムが使われていたのは、それがモナザイト鉱から容易に分離精製されるため、同様の性能が得られる他の物質に比べて調達価格が安価だったからに過ぎません。松下幸之助の、良いものを潤沢に安く供給するのが生産者の使命とする“水道哲学”が日本の経済界を席巻していたことにも留意しておくべきと思います。
余談ながら、1973年10月に第一次石油危機が起こり、石油価格の高騰は、溶解に重油を多く消費する光学ガラスの価格を急騰させ、世界の光学メーカーの経営を圧迫していきました。日本ではミランダカメラが1976年、ペトリカメラが1977年に倒産に至り、ヤシカはカール・ツァイス財団から1973年夏に突然打診され同年9月19日に合意に達した提携に社運を賭けますが経営状況は悪化の一途をたどり続け、給料の欠配が続いて社員の退社も相次ぐ中、1975年に経営破綻、1983年に京セラに吸収合併されました。また、石油危機目前の1973年4月に TOPCON SUPER DM を発売した東京光学はワインダー内蔵機の開発に着手したものの、開発費が枯渇して開発を断念、その後の同社の35mm判一眼レフ開発は迷走を続けたあげく、1980年に事業撤退に至ります。ドイツでも「ローライ」のフランケ・ウント・ハイデッケが苦境に陥り、1979年に勃発した第二次石油危機で止めを刺され、1981年に倒産しました。
余談ながら、1973年10月に第一次石油危機が起こり、石油価格の高騰は、溶解に重油を多く消費する光学ガラスの価格を急騰させ、世界の光学メーカーの経営を圧迫していきました。日本ではミランダカメラが1976年、ペトリカメラが1977年に倒産に至り、ヤシカはカール・ツァイス財団から1973年夏に突然打診され同年9月19日に合意に達した提携に社運を賭けますが経営状況は悪化の一途をたどり続け、給料の欠配が続いて社員の退社も相次ぐ中、1975年に経営破綻、1983年に京セラに吸収合併されました。また、石油危機目前の1973年4月に TOPCON SUPER DM を発売した東京光学はワインダー内蔵機の開発に着手したものの、開発費が枯渇して開発を断念、その後の同社の35mm判一眼レフ開発は迷走を続けたあげく、1980年に事業撤退に至ります。ドイツでも「ローライ」のフランケ・ウント・ハイデッケが苦境に陥り、1979年に勃発した第二次石油危機で止めを刺され、1981年に倒産しました。
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, non-Radioactive), F1.4
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, non-Radioactive), F2.0
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, non-Radioactive), F2.8
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Silver filter mount, non-Radioactive), F5.6
オリンパスは1975年11月、世界で初めてTTLダイレクト測光を実現した一眼レフ「OM-2」を発売しましたが、ズイコー交換レンズ群の鏡胴デザインが変更されたのはこれよりかなり遅かったらしく、フィルター枠が銀枠ではなく黒枠になったのは、おそらく1977年の後半以降と思われます。OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 もレンズ銘はそのままで黒枠に変わるのですが、その変わり目のシリアルナンバーがはっきりしません。ネット上の中古製品画像を見たところ、シリアルナンバー 532577 の個体(archive.today)は銀枠で、シリアルナンバー 554580 の個体(archive.today)は黒枠であることから、シリアルナンバー 54万台前後付近で銀枠から黒枠に切り替わったものと推測します。
ですが、このレンズが変わったのはフィルター枠の色だけではありませんでした。
まず黒枠モデルで目立つ違いは、レンズの長さが長くなったことです。銀枠モデルはマウント面からフィルター枠先端までの長さが公称 36mm、手持ちの銀枠の個体2本を距離指標を無限遠に合わせた状態で実測したところ、36.8~37.0mm でしたが、黒枠モデルを同じ条件で実測したところ、39.8mm ありました。これは単に鏡胴だけ長くなったのではないことは、両者を並べてみると前玉前面の凸面中心部が、黒枠モデルの方が前に出ていることから分かります。質量は銀枠・黒枠とも公称 230g ですが、実測では銀枠が 227g、黒枠が 229g です。
両者を並べてみると、もう一点分かります。前玉前面の凸面の曲率が違い、黒枠モデルの方が曲率が強いのです。これは光源をレンズに当てて反射像を見ても分かります。銀枠モデルと黒枠モデルでは、反射像の出方が大きく違うのです。
長さについて、もうひとつ。レンズマウント外刃の後面から後玉支持枠先端までの長さも違います。銀枠モデルが 1.2mm なのに対し、黒枠モデルは 2.0mm と、0.8mm 長くなっています。つまり、黒枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は銀枠モデルよりバックフォーカスも短くなり、光学系の全長自体が長くなっているのです。
なお、『アサヒカメラ1979年4月増刊号』の「各社一眼レフ交換レンズ総カタログ」p.82 のこのレンズの項に
フローティングと記されているのは、アサヒカメラ誌の誤記と判明しました。このレンズは銀枠・黒枠ともにフローティング機構を持っていません。ちなみに、M-1 発売当時にフローティング機構、当時のオリンパスは「近距離収差補正機構」「遠距離近距離収差補正機構」と呼んでいましたが、この機構を採用していた銀枠のレンズは、18mm F3.5、24mm F2、28mm F2、50mmマクロ F3.5、85mm F2 の5本でした。
以上から、黒枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は、以前の銀枠モデルとは光学設計が異なっていると考えるほかありません。では、どんな改設計が行われたのでしょうか。
1975年6月14日、銀枠モデルと同じ中川治平氏の光学設計になる大口径標準レンズの特許が出願されました。特願昭50-72257のこの出願は、1976年12月20日に特開昭51-148421の番号で公開され、1983年4月11日に特公昭58-17929として公告、そして日本国特許第1185792号が成立しました。同設計の米国特許はNo.4094588(PDF)、ドイツ特許はDE2626336です。
特公昭58-17929の記述を見てみます。
特公昭58-17929に掲載のレンズ構成図は『カメラ毎日別冊 カメラ・レンズ白書 1979年版』に一致しますし、
本発明は(中略)、ガウス型の標準写真レンズが高屈折率のガラスを用いることによって高性能化し、コンパクト化してきた従来の発展を受けつぐと共にレンズ系の全長をそれ程増大させることなしに、従来の欠点であったコマフレアーの除去と球面収差並びに球面収差の色収差を良好に補正した大口径比写真レンズを提供することにある。
更に本発明は無限遠物体、近距離物体に対する収差を共に良好に補正し得たものである。
レンズ系の全長をそれ程増大させることなしに、は、黒枠モデルの全長が銀枠モデルより少し長いことに対応しています。
特公昭58-17929の記述から、この改設計は、コマフレアの除去と、球面収差を抑え、同時に波長による球面収差の違いを抑えること、および撮影距離の違いによる収差の変動を抑えることを目的としていたことが分かります。また、特公昭58-17929記載の球面収差図は特公昭50-35813とはやや異なり、g線とd線の曲線がよく揃い、『アサヒカメラ1972年10月号』ニューフェース診断室で実測・掲載されたS字カーブのアンダーコレクションの補正状態によく似ています。実際の製品でもこのアンダーコレクションの球面収差が維持されていたらしいことが、『カメラ毎日別冊 カメラ・レンズ白書 1979年版』p.85 の、
各社の標準レンズ中では、開放画質が割によいのが印象に残った。という画質評から伺えます。
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Black filter mount), F1.4
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Black filter mount), F2.0
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Black filter mount), F2.8
G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (Black filter mount), F5.6
鏡胴デザインを銀枠から黒枠に変更した理由を、米谷美久氏は『一眼レフ戦争とOMの挑戦』 p.119~120 に、次のように書いています。
レンズの先端に白く輝く2本の線を付けたのは大失敗であった。ブラックボディーにレンズを付けたときに2本の線が目立ち過ぎることと、ガラスなど反射の強い被写体を接写するとき、この2本の線が反射して写ってしまうことであった。自分で接写してみて気がついたが、レンズ前面の2本の輝く線は途中から取りやめることにした。
G.ZUIKO AUTO-S 55mm F1.2 も同様に、銀枠から黒枠に変わる際に光学設計が変更されています。前期・銀枠モデルは特公昭49-27699(1970年5月15日出願)、後期・黒枠モデルの設計は特開昭50-124632(1974年2月14日出願)で、いずれも同じく中川治平氏の設計です。
F.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.8(5群6枚)も、銀枠モデルと黒枠モデルでは各エレメントの曲率が異なり、2枚目と3枚目の間の空気レンズの形状も異なることから、やはり光学設計が変更されていると考えられます。F.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.8 の後期・黒枠モデル(51.6mm F1.84)は『アサヒカメラ1979年9月号』でテストされ、記事及びそこに掲載されたレンズ構成図・収差図・解像力表・MTF は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 オリンパスの軌跡』 p.118~120 に再録されています。記事では開放時の画質の甘さと像の流れが指摘され、コマ収差の影響が推測されています。一般に、OMシステムの普及価格帯で企画されたレンズは、この F.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.8 のほか ZUIKO AUTO-S 40mm F2(『アサヒカメラ1984年1月号』でテスト、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 オリンパスの軌跡』 p.141~143 に記事・収差図・MTFなど再録、非常に低いコントラスト(開放時に 30本/mm のコントラスト減少率が、放射方向は画面中心から 2mm~15mm で、同心方向は同じく 2mm から画面端まで 20% を大きく割り込んで非常に低い)と縦方向の色収差が指摘され、
画質の評価はいま一つと低評価)など、現在のオールドレンズ界隈では行きすぎた過大評価が横行しているように思われます。
ちなみに、ZUIKO AUTO-S 40mm F2(1983年4月発売・1988年販売終了、6群6枚、41.2mm F2.0、今井利廣氏設計)の光学設計は特開昭56-59216(1979年10月18日出願・日本国特許第1535463号)で、この設計を一言で表すと、1979年11月発売の小西六写真工業・KONICA HEXANON AR 40mm F1.8(5群6枚、41.4mm F1.83、下倉敏子氏設計、1977年6月23日出願・特公昭56-46128・日本国特許第1105243号)のバックフォーカスを延長した設計と見ることができます。これらの、前群のパワー配置を凹を先行させて凸凹凸とすることで、1枚目と2枚目の合成パワーを負としてガウス前群にレトロフォーカスの要素を持たせた構成=バックフォーカスを稼いで一眼レフ用ガウスタイプの短焦点化を可能にしたレンズ構成は、1975年6月18日出願のソ連特許SU531115(該当特許の Google Patents による英訳)に始まると言えます。そしてこの構成は、現行の COSINA Voigtländer ULTRON 40mm F2 SL ⅡS Aspherical に引き継がれていますし、同じく現行製品の Canon EF40mm F2.8 STM のレンズ構成も、この構成のバリエーションと見ることができます。なお、HEXANON AR 40mm F1.8 は『アサヒカメラ1980年1月号』でテストされ、記事及びそこに掲載されたレンズ構成図・収差図・解像力表・MTF は『カメラドクター・シリーズ6 カメラ診断室 アサヒカメラ連載』(朝日ソノラマ)p.137~138 に再録されています。
ZUIKO AUTO-S 40mm F2 について、OMマニア などが流布している生産数3,000本とする説はデマです。All About Photographic Lenses.は ZUIKO AUTO-S 40mm F2 の生産数を 10,700本としています。OMマニア は他にも根拠の怪しい記述が多く、その作成・運営目的は
OMシステムの魅力と、OM-ZUIKOレンズ群の性能の高さを検証・紹介するのではなく、オークション出品で入札価格を煽ることと疑われます。
モノコートだった黒枠の OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は、NEW OM-1、NEW OM-2(いずれも1979年3月)や OM-10(1979年6月)の発売より少し遅れて、1979年の夏頃にマルチコーティングを施されて、名称も OM-SYSTEM ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4 に変わりました。ズイコー交換レンズ群は広角や望遠にF2の明るさのレンズが揃っていて、それらについてはかなり早い時期からマルチコーティングが施されていましたし、50mm F3.5マクロのマルチコート化も既に行われていましたが、標準レンズや価格を抑えたモデルのマルチコート化は、他社に比べてかなり遅いと言えます。しかしながら1970年代後半には、1976年4月23日の Canon AE-1 発売(ボディのみの価格 5万円)に端を発して泥沼化していった低価格競争で体力を消耗した企業も多く、10面中8面がモノコートのミノルタ MD W.ROKKOR 35mm F2.8(5群5枚、1977年)のように、マルチコーティングに対して腰が引けたところも多数現れていました。
1978年12月初旬発売の『カメラ毎日別冊 カメラ・レンズ白書 1979年版』 p.85 と、1979年3月下旬発売の『アサヒカメラ1979年4月増刊号』 p.82 は、ともにレンズ名を「ズイコー50ミリF1.4」としていて、「ズイコーMC24ミリF2」などマルチコートされたレンズにはある“MC” の表示が、この 50mm F1.4 にはありません。『カメラ・レンズ白書 1979年版』の方は、
『アサヒカメラ ニューフェース診断室 オリンパスの軌跡』(2001年7月発売)に再録されたアサヒカメラ1972年10月号のテスト記事では、その扉(p.95)に、黒枠の OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 を装着した M-1 のモノクロ写真を掲載しています。その G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 のシリアルナンバーは 746803 です。
島田和也氏による『実用中古標準レンズ100本ガイド』(学研、2000年11月発売)は、p.46~47 の「オリンパス GズイコーオートS50ミリF1.4」の記事に、シリアルナンバー 748141 の個体の写真を掲載しています。
2019年2月23日現在、カメラのキタムラ ネット中古に、シリアルナンバー 753806 の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 が出品されていました。
1979年10月18日に発売された『カメラ毎日 1979年11月号』誌上 p.97 に掲載されているオリンパス NEW OM-2 の広告において、その広告写真上の NEW OM-2 に装着されている ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4 のシリアルナンバーは 765660 のように見えます。
1980年11月発売の『カメラ毎日別冊 カメラ・レンズ白書[2] カメラシステムと交換レンズ』は、p.84 掲載の
これらの記録から、少なくとも 75万3千番台までは G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 だったことが分かり、「シリアル70万番台以上は ZUIKO MC AUTO-S(マルチコート、MC表示あり)」としている オリンパスOMファン や OMマニア の記述に信憑性がないことも分かります。
マルチコート化されたモデルの発売が1970年代末までずれ込んだのは、技術的な問題ではなくコストの問題と見られます。1966年に発売されたハーフサイズ一眼レフ「オリンパス PEN FT」では既に、ファインダー光学系の空気との境界面にマルチコーティングが施されていました。
MD W.ROKKOR 35mm F2.8 のテスト記事・収差図(『アサヒカメラ1978年5月号』初出)は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ミノルタの軌跡』(朝日新聞社)p.102~103 に再録されています。球面収差は、レンズ最周辺で -0.08mm のアンダーコレクションです。
レンズ番号 707112 ・¥26,500(ケース付き)と明記しています。
『アサヒカメラ ニューフェース診断室 オリンパスの軌跡』(2001年7月発売)に再録されたアサヒカメラ1972年10月号のテスト記事では、その扉(p.95)に、黒枠の OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 を装着した M-1 のモノクロ写真を掲載しています。その G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 のシリアルナンバーは 746803 です。
島田和也氏による『実用中古標準レンズ100本ガイド』(学研、2000年11月発売)は、p.46~47 の「オリンパス GズイコーオートS50ミリF1.4」の記事に、シリアルナンバー 748141 の個体の写真を掲載しています。
2019年2月23日現在、カメラのキタムラ ネット中古に、シリアルナンバー 753806 の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 が出品されていました。
1979年10月18日に発売された『カメラ毎日 1979年11月号』誌上 p.97 に掲載されているオリンパス NEW OM-2 の広告において、その広告写真上の NEW OM-2 に装着されている ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4 のシリアルナンバーは 765660 のように見えます。
1980年11月発売の『カメラ毎日別冊 カメラ・レンズ白書[2] カメラシステムと交換レンズ』は、p.84 掲載の
レンズ番号 795834 ●¥28,500の個体の名称を「ズイコーMC50ミリF1.4」としています。
これらの記録から、少なくとも 75万3千番台までは G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 だったことが分かり、「シリアル70万番台以上は ZUIKO MC AUTO-S(マルチコート、MC表示あり)」としている オリンパスOMファン や OMマニア の記述に信憑性がないことも分かります。
マルチコート化されたモデルの発売が1970年代末までずれ込んだのは、技術的な問題ではなくコストの問題と見られます。1966年に発売されたハーフサイズ一眼レフ「オリンパス PEN FT」では既に、ファインダー光学系の空気との境界面にマルチコーティングが施されていました。
MD W.ROKKOR 35mm F2.8 のテスト記事・収差図(『アサヒカメラ1978年5月号』初出)は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ミノルタの軌跡』(朝日新聞社)p.102~103 に再録されています。球面収差は、レンズ最周辺で -0.08mm のアンダーコレクションです。
黒枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 と ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4 は、それぞれ手元の個体を実測したところ、外形寸法・質量とも全く同じでした。光源の反射像を観察すると、コーティングの違いによる色の違いはありますが、反射像の出方そのものに大きな違いは見つけられませんでした。
ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4, F1.4
ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4, F2.0
ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4, F2.8
ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4, F5.6
OM-SYSTEM ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4 は、おそらく1982年に OM-SYSTEM ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 へと名称が再び変わります。この ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の取扱説明書に記載されているレンズ構成図は、黒枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の構成図と同じです。その後、ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 は1990年頃に販売を終了します。レンズ銘は変わっても、黒枠 G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の光学設計は最後まで引き継がれていたようです。
1980年代に入って早々、1981~82年になると、標準レンズの需要が 35-70mmズームへ移り、単焦点標準レンズの売れ行きの大幅な減退は誰の目にも明らかなものとなりました。それに対応して、単焦点標準レンズのコストダウンが求められることとなりました。1985年には、まず2月20日にミノルタがAF一眼レフ「MINOLTA α-7000」(対米輸出モデルは「MINOLTA MAXXUM 7000」)と 24mm から 300mm まで単焦点レンズ 7本・ズームレンズ 5本、計12本の交換レンズを発売し、たちまちにして市場の人気をかっさらい、マニュアルフォーカスの一眼レフや交換レンズの売れ行きが一気に落ちます。そして、9月22日の先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議での為替レート安定化に関する合意、いわゆる「プラザ合意」の後に、日本経済は急激な円高に見舞われ、国内のカメラ・レンズ業界は輸出採算性の急速な悪化に対して即効性のある対応を迫られました。このとき国内各社は、品質検査基準の引き下げと、生産部材の見直しや生産工程の一部省略をも含む生産ラインの大胆な合理化などで急激な円高に対抗しています。
国立科学博物館・産業技術史資料情報センターは2020年9月8日、MINOLTA α-7000 を重要科学技術史資料(未来技術遺産)の第00290号に2020年9月15日付で登録すると発表しました。
国立科学博物館・産業技術史資料情報センターは2020年9月8日、MINOLTA α-7000 を重要科学技術史資料(未来技術遺産)の第00290号に2020年9月15日付で登録すると発表しました。
銀枠の M-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 から最終モデルの OM-SYSTEM ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 まで、光学設計の違いから前期型と後期側の2バージョンに分けられ、前期型はトリウムレンズか否かで2バリエーションに、後期型はモノコートかマルチコートかで2バリエーションに分けられます。後期型の、特にマルチコート化されたバリエーションでは、現存する中古の個体に程度の良いものがかなり少ないようです。
前期型・トリウムレンズ : 全長 37mm(公称 36mm)
銀枠 M-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (1972年7月1日発売)
銀枠 OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4(1973年5月末から)
前期型・非トリウムレンズ : 全長 37mm(公称 36mm)
銀枠 OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4(変更時期不明)
後期型・モノコート : 全長 40mm(公称 39~41mm)
黒枠 OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4(1977年と推定)
後期型・マルチコート : 全長 40mm(公称 39~41mm)
黒枠 OM-SYSTEM ZUIKO MC AUTO-S 50mm F1.4(1979年夏頃から)
黒枠 OM-SYSTEM ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 (1982年と推定)
銀枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 と黒枠モデルで長さが違うことは、Vintage Camera Lenses や Olypedia、Photography in Malaysia など、指摘しているところはいくつかありますが、この事実から光学設計の変更をも指摘されているのは、クラカメと旅(OM標準レンズ)のみでした。ファンサイトとしてよく知られていて、検索でも上位でヒットする OMマニア や オリンパスOMファン、これからもOM、OM推進委員会 などは、見た目の違いに注目して細かくバージョン分けされているにもかかわらず、もっと簡単に分かる長さの違いや反射像の違いには気付けないままで、当然ながら光学設計の違いも指摘できていません。
最終モデルの ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の販売終了が一昔前のこととなった2001年11月、カメラやレンズについての文筆活動でも著名な赤城耕一氏(@summar2)は、双葉社から『使うオリンパスOM』を上梓されました。同書 p.52 において赤城先生におかれましては、わずかな補正不足を保ってS字状カーブを描くアンダーコレクションの球面収差を持つ G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 を、かくの如くご紹介あそばされていらっしゃいます。
検索で非常に高い順位でヒットする OMマニア のほか これからもOM などがこの記述を引用しているために、G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 の光学設計への誤解が拡大再生産され広がっていく一方なのは残念です。『使うオリンパスOM』発売の4ヶ月前には、アサヒカメラ1972年10月号の診断室記事や収差図なども再録した『アサヒカメラ ニューフェース診断室 オリンパスの軌跡』が発売されていて、特に これからもOM はトップページでこの『オリンパスの軌跡』を紹介しているにもかかわらず、ページ内の記述にその内容が反映していないのは奇妙に感じます。
設計当時のほとんどの国産メーカーの標準レンズがそうであったように、このレンズも球面収差は補正過剰気味だ。
『アサヒカメラ ニューフェース診断室 オリンパスの軌跡』の巻頭 p.4~11 の記事「OMシステム大図鑑」の書き手は赤城耕一氏、p.18~20 の「オリンパスOM-1徹底解剖」の書き手も赤城耕一氏です。ですから、『使うオリンパスOM』執筆時の赤城耕一氏には、『オリンパスの軌跡』に再録された測定データに接して確認する機会が十二分にあったはずなのです。
赤城耕一氏は新製品のファーストレビューのほか、クラシックカメラやオールドレンズに関する著書が大変に多く、氏の写真作品はファーストレビューやカメラ・レンズ本でしか見たことがないという方も大勢いらっしゃると思います。しかしながら赤城耕一氏単独の著書は信憑性・信頼性に疑問符を付けざるを得ず、資料とするのは躊躇われます。
かつては、数多くの交換レンズや各種アクセサリーを揃えて多彩な撮影用途に対応可能なカメラを「システムカメラ」という和製英語で呼び、1960年代から70年代にかけて、各社ともシステムの拡充に力を入れていました。藤田直道氏は『アサヒカメラ1979年4月増刊号』の記事、「35㍉一眼レフ白書・全システム点検とその魅力」(p.37~73)で「システムカメラ」の語について、
いつごろから使われ出したのか、あまり定かではないが、一九六四年ごろではなかったかと思う。としています。同じ記事で同氏はオリンパスの OMシステムを、
と評しています。
オリンパスが顕微鏡のメーカーであるため、とくに接写、拡大撮影のマクロシステム、顕微鏡関係のミクロシステムが充実している。
これらは一般的なものだけではなく、専門の用途にも十分に対応できるだけのシステムになっているのが特徴である。
「システムカメラ」というと、“何でも撮れる万能カメラ” とする捉え方が一般的でしたが、米谷美久氏は OMシステムを違う考え方で構築していきました。同じく『アサヒカメラ1979年4月増刊号』掲載の「座談会・各社設計、開発技術陣が語る最新一眼レフの性能比べ」(p.97~105)の中で、米谷美久氏(オリンパス光学 研究開発本部次長)と 倉本善夫氏(ミノルタカメラ 開発部次長・第一開発部門長)は、次のように語っています(肩書きは1979年3月当時)。
米谷氏の発言を受けての倉本氏の言葉は、要約すれば「万能は専用に劣る」という一般常識の再確認に帰結しています。
米谷 システムの話が出ましたが、システム=万能みたいに思われていますが、そうではないですね。私はむしろ、システム=専用というふうに解釈してOMというのを展開しています。専用というのは、いろんなシステムを組み合わせて専用カメラになる。これを私はシステムと称していままでやってきているのです。しかし、専用化されてくるだけにやりやすいけれども、ユーザー層がだんだん狭くなってくる。イコール高価につながるという問題があって、メーカーとして非常に悩むところですがね。
倉本 ミノルタX-1はシステムカメラで、ファインダーを交換して、露出制御のほうまで組み合わせることをやっていますが、それでも引き算的な要素があって、やはり、あっちこっちに割り切りがありますし、それぞれの専用機には、かなわないところがありますね。ただ専用機になりますと高いものにつく。なんとか使える程度で写してもらえれば、経済的な効果は高いということはいえると思いますが、それぞれに向いたカメラをつくるのが、やはりいちばん使いやすいものになるとは思います。
オリンパスは、2001年に OM-3Ti と OM-4Ti BLACK の販売を、2002年に OMシステム残存全製品の販売を終了して、35mm判レンズ交換式カメラ市場から完全撤退しました。20世紀末には、1980年代半ばから後半にマウントを一新してAF一眼レフを発売したミノルタやキヤノンはもちろんのこと、ニコン、旭光学、京セラもAF一眼レフを開発・販売していました。ひとり、オリンパスのみがレンズ交換式一眼レフのAF化移行に失敗してシェアを失い、ついに事業撤退に至ったものです。
1970年代後半、オリンパスは、ライツ・コレフォト特許にも米ハネウェルのストーファー特許やオガワ特許にも抵触しない独自のAF技術を開発して、商品化を目指した開発投資を積極的に行っていました。ところが、1979~80年にかけてのこと、その技術の社内デモンストレーションを行ったところ、当時の研究開発本部長氏(この時期は米谷美久氏はまだ研究開発本部次長です)の顔にだけピントが合わないという結果が出てしまい、これに研究開発本部長が立腹、AF開発担当者と深刻な感情的対立に発展してしまいます。これに嫌気が差したAF開発担当者は辞表を提出、人事担当の役員は慰留することなく、これをあっさり受理してしまいました(朝日新聞社刊『国産カメラ開発物語』25話「ピント合わせの奥深さ」冒頭 p.170~172)。オリンパスの当時のAF開発はこの担当者がほとんど一人で担っていたため、オリンパスはこの事件によって独自AF技術と開発リソースを喪失しました。
1979年は、ハネウェルが78年に開発した一眼レフ用の位相差AFセンサーモジュール「TCLモジュール」を日本のカメラメーカー各社に売り込み始めた年です。オリンパスはハネウェルの技術に賭けて TCLモジュールを採用、ハネウェルでの TCLモジュールの量産が軌道に乗った1982年の11月に、専用のAFズームレンズ「ZUIKO AUTO-ZOOM 35-70mm F4AF」を装着するとAF動作する「OM30」を発売。1986年にはやはり TCLモジュールを使った「OM707」を、9月にフォトキナで発表、11月に発売しました。OM707 のAF性能は、暗所でもイルミネーターが使える近距離では先に発売されていたミノルタ α-7000 といい勝負でしたが、イルミネーターが使えない距離では惨敗。加えて、AFレンズではAF駆動時にピントリングを操作されてしまうとAF駆動メカニズムが破損しかねないとしてピントリングを廃止し、MF時にはボディ背面のスライドノブを操作して、ボディ内蔵のAF駆動用モーターを動作させる機構(パワーフォーカス、略して "PF")を採用。ところが、このパワーフォーカス機構の出来が悪く、MF時にピントが来たと思った瞬間にスライドノブから指を離してもレンズが少し行きすぎてしまい、MFでピントを合わせるのが非常に困難なカメラに仕上がってしまいました。OM707 発表時、取締役に昇格していた米谷氏が「こういうオートフォーカス機は僕の趣味ではないのだが……」と弁解しきりだったという逸話を、小倉磐夫教授は『新装版 現代のカメラとレンズ技術』(写真工業出版社)の p.240 に記しています。前任の開発本部長がやらかしたせいで…などとは、大人のビジネスマンが口にできようはずもありません。
1988年2月には、TTL位相差フォーカス検出センサーを国内電機メーカーから調達してフォーカスエイド機とした「OM101 POWER FOCUS」を発売。パワーフォーカス機構は大幅に改良されましたが、AFは搭載されませんでした。当初からマニュアルフォーカス機として開発したものと公式にはアナウンスされましたが、ハネウェル提供のノウハウが使えない他社製センサーを用いてレンズ交換式AF一眼レフにまとめ上げられるだけの開発リソースが、当時のオリンパスにはなかったのだろうと推測します。その後オリンパスは、ミノルタとハネウェルのAF技術を巡る特許紛争の結果を受けて、1992年9月24日に、3,470万ドル(当時の為替レート 1米ドル≒122円で換算して 42億3,300万円相当、『新装版 現代のカメラとレンズ技術』 p.254 表1「ハネウエル特許事件・和解メーカー15社と和解金額」より)の和解金を支払うことで、ハネウェルと和解に至りました。
『一眼レフ戦争とOMの挑戦』に OM30 の記述は p.206 右段にわずか9行、しかもAF機能には全く触れていません。OM707 と OM101 POWER FOCUS に至っては1字もなし。このことから、米谷氏にとってオリンパスのAF技術開発の経緯が思い出したくもない忌まわしい黒歴史だったことが伺われます。
このレンズを設計した中川治平氏は、1977年にオリンパスを退社し、中川レンズデザイン研究所を設立されました。小倉磐夫・東京大学名誉教授は『カメラと戦争』(朝日新聞社)で、レンズ設計者の育成に尽力した功績者として、MAMIYA-SEKOR 80mm F2.8 を設計し改良を続けたことでも知られるマミヤ光機の岡崎正義氏と、そして、この中川治平氏の二人を挙げています。中川氏の薫陶を受けたレンズ設計者は非常に多いそうですが、特にシグマの設計能力の向上に大きな功績があったといいます。事実、Google Patents で Inventor のキーワードを「Jihei Nakagawa」として検索すると、オリンパスのほか、シグマの特許がたくさんヒットします。
1990年、ライカカメラ社はシグマの SIGMA 28-70mm F3.5-4.5UC(¥35,000、8群11枚)を、光学設計はそのままで鏡胴デザインのみ異なる VARIO-ELMAR-R 28-70mm F3.5-4.5 としてOEM供給を受けて、シグマの約5倍の¥165,000 で発売しました。『カメラと戦争』朝日文庫版 p.165 に曰く、
このズームレンズの設計者、金井慎治氏もまた中川門下生の一人とあります。
『アサヒカメラ1992年2月号』ではニコンの Ai AF Zoom NIKKOR 28-70mm F3.5-4.5S(1991年6月発売、¥42,000、7群8枚、2枚目のガラスレンズの第1面を研削で非球面に加工し、その面上に厚さが一定の光学プラスチックを貼り合わせたハイブリッド非球面ズームレンズ)がテストされていますが、
エルンスト・ライツ(Ernst Leitz GmbH)は、自社レンジファインダー機技術の過信による一眼レフへの取り組みの大幅な遅れと、世界のカメラ需要が日本製一眼レフへシフトしたこと、ズームレンズの将来性を否定してズームレンズの開発投資を全く行わなかったことに加えて、米ドルの信認低下から西ドイツマルクが変動相場制に移行(1971年5月)した後のマルク高、マイスター制による人件費の高止まりを始めとした生産コストの高騰など、重大な判断ミスと相次ぐ悪材料による経営の悪化に直面して、スイスの航空写真・測量機械・精密測定器を手がける「ウィルド」(Wild Heerbrugg AG)に支援を求めました。ウィルドは1973年にエルンスト・ライツの株式の過半数を取得し、1974年に新会社「エルンスト・ライツ・ウェッツラー」(Ernst Leitz Wetzlar)を設立、また、カナダの Ernst Leitz Canada は1976年に「ウィルド・ライツ・カナダ」(Wild Leitz Ltd. Canada)となります。その後、ウィルド・ライツ社(Wild Leitz)は不採算部門のカメラ事業を分離するに当たって "Ernst", "Leitz", "Wetzlar" の3語の使用を禁じた上で Ernst Leitz Wetzlar を解散し、1988年にゾルムスにライカ社(Leica)が設立され、ライカ社は1990年に「ライカカメラ」(Leica Camera AG)へ社名を変更しました。なお、日本国内の輸入代理店は株式会社シュミットから、1981年に日本シイベルヘグナー(2009年に「DKSHジャパン株式会社」へ社名変更)へ代わりました。
蛇足ながら、オーディオ分野では2008年に、スイスのGOLDMUND社が、日本のパイオニア社製DVDプレーヤ(¥13,600)と同じ内容の製品を140万円で販売して、世界的に問題になったことがありました。
このコントラスト減少率も子細にみるとすべての焦点距離、すべての絞りで無限遠、近距離ともバリオエルマーR28~70㍉F3.5~4.5におよばず、
全体として91年8月号でテストしたバリオエルマーR28~70㍉F3.5~4.5のほうがいいと評されています。この評から、シグマのズームレンズ設計能力が、1990年の時点で既にニコンのそれを上回っていたことが伺えます。SIGMA 28-70mm F3.5-4.5UC と VARIO-ELMAR-R 28-70mm F3.5-4.5 のテスト記事・収差図・MTF(『アサヒカメラ1991年8月号』初出)は『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ライカの20世紀』 p.127~133 に、Ai AF Zoom NIKKOR 28-70mm F3.5-4.5S のテスト記事・収差図・MTFは『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ニコンの黄金時代② F4~F100「診断室」再録』(朝日新聞社)p.83~86に再録されています。
エルンスト・ライツ(Ernst Leitz GmbH)は、自社レンジファインダー機技術の過信による一眼レフへの取り組みの大幅な遅れと、世界のカメラ需要が日本製一眼レフへシフトしたこと、ズームレンズの将来性を否定してズームレンズの開発投資を全く行わなかったことに加えて、米ドルの信認低下から西ドイツマルクが変動相場制に移行(1971年5月)した後のマルク高、マイスター制による人件費の高止まりを始めとした生産コストの高騰など、重大な判断ミスと相次ぐ悪材料による経営の悪化に直面して、スイスの航空写真・測量機械・精密測定器を手がける「ウィルド」(Wild Heerbrugg AG)に支援を求めました。ウィルドは1973年にエルンスト・ライツの株式の過半数を取得し、1974年に新会社「エルンスト・ライツ・ウェッツラー」(Ernst Leitz Wetzlar)を設立、また、カナダの Ernst Leitz Canada は1976年に「ウィルド・ライツ・カナダ」(Wild Leitz Ltd. Canada)となります。その後、ウィルド・ライツ社(Wild Leitz)は不採算部門のカメラ事業を分離するに当たって "Ernst", "Leitz", "Wetzlar" の3語の使用を禁じた上で Ernst Leitz Wetzlar を解散し、1988年にゾルムスにライカ社(Leica)が設立され、ライカ社は1990年に「ライカカメラ」(Leica Camera AG)へ社名を変更しました。なお、日本国内の輸入代理店は株式会社シュミットから、1981年に日本シイベルヘグナー(2009年に「DKSHジャパン株式会社」へ社名変更)へ代わりました。
蛇足ながら、オーディオ分野では2008年に、スイスのGOLDMUND社が、日本のパイオニア社製DVDプレーヤ(¥13,600)と同じ内容の製品を140万円で販売して、世界的に問題になったことがありました。
ガラスモールド非球面レンズの生産技術と非球面の精密計測技術を開発・確立したパナソニック(2008年10月から。旧社名は松下電器産業株式会社)も、中川治平氏の指導を受けた企業の一つです。1980年、松下電器産業がレンズ設計グループを立ち上げるためにレンズ設計技術の指導者を求めて小倉磐夫教授に接触した際、中川氏を推した小倉教授は、その理由に、中川氏の設計実力は世界の五指に入ると評価していたことに加えて、後進に技術の伝承を繋いでいくことが進歩に繋がるという信念の持ち主であることを挙げていたと、パナソニックの関係者は『非球面モールドレンズに挑む!』(日刊工業新聞社)で伝えています。
中川氏が松下電器のレンズ設計を指導する中で提示した試案に、従来なら13~15枚のレンズ構成となる6倍ズームレンズを、非球面を3面導入して9枚に減らしたものがあったとのことです。特許出願はされませんでしたが、この設計案は世界初の非球面ズームレンズの実設計だったと見られています。中川氏の指導を受けた松下電器産業は、1990年6月にビデオカメラでは初めて非球面レンズを採用して、ガラスモールド非球面レンズ2枚を使ったズームレンズを搭載した「NV-S1」“ブレンビー”を発売、2001年7月24日にはライカカメラ社との提携を発表しました。
Panasonic NV-S1 は2014年、重要科学技術史資料(未来技術遺産)第00165号に登録されました。
2018年9月25日に発表されたパナソニック、シグマとライカカメラ社の「Lマウントアライアンス」も、遡って見てみれば、中川治平氏の指導の賜と言えるのかもしれません。
1972年に銀枠の G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 が発売された当時、すなわち、Carl Zeiss CONTAX Planar T* 50mm F1.4 が発売される1975年11月より前に、オリンパスのほかに、国内他社からも過剰補正型の設計を脱した標準レンズがいくつか出てきました。1969年10月21日発売の東京光学・UV TOPCOR 50mm F2(4群6枚)、1972年9月の富士写真フイルム・EBC FUJINON 50mm F1.4前期型(6群7枚)、1973年4月のミノルタ・MC ROKKOR-PG 50mm F1.4(5群7枚)で、オリンパス以外はレンズ最外縁でほぼ完全補正とするシンプルなフルコレクションにまとめていました。これに対し、同じ時期のツァイスの HFT Planar 50mm F1.4 は過剰補正型(オーバーコレクション)の日本的な解像重視設計だったことは以前にも書いたとおりですし、HFT Distagon 35mm F2.8 や Planar 50mm F1.8(HFTではないモノコートモデル、ドイツ特許DE2114176・英国特許No.1339225・特開昭47-37418・特公昭51-21575・日本国特許第847016号)も、やはりオーバーコレクションの解像重視設計、CONTAX Planar T* 85mm F1.4(ドイツ特許DE2315071・米国特許No.3948584(PDF)・特開昭50-8527)も、オーバーコレクションタイプです。
UV TOPCOR 50mm F2(シリアルナンバー 68000649)の実測値は 50.1mm F2.08 で設計値はおそらく 50.0mm、その前の製品(1963年)である UV TOPCOR 53mm F2(シリアルナンバー 5416761)の実測値は 54.1mm F2.1 で設計値は 54.0mm と見られます。これにより、トプコンクラブのトプコンよもやま話12~一眼レフ用トプコール標準レンズにある UV TOPCOR 50mm F2 の解説、
UV TOPCOR 53mm F2 のテスト記事(『アサヒカメラ 1965年4月号』初出)は『MF一眼レフ名機大鑑』(朝日新聞社)p.66 に、UV TOPCOR 50mm F2 の実測値・収差図・解像力表は『レンズテスト[第1集]』p.146~147に掲載されています。EBC FUJINON 50mm F1.4前期型の収差図は、『カメラドクター・シリーズ〔第1集〕 最新カメラ診断室』(朝日ソノラマ)p.121 と『レンズテスト[第1集]』 p.170 に掲載されています。MC ROKKOR-PG 50mm F1.4 の収差図は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ミノルタの軌跡』 p.70 と『レンズテスト[第1集]』 p.172 に掲載されています。Planar 50mm F1.8 の収差図は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ハッセルブラッド・ローライの名機たち』(朝日新聞社)p.103 と『レンズテスト[第2集]』 p.80 に、HFT Distagon 35mm F2.8 の収差図は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ハッセルブラッド・ローライの名機たち』 p.127 に掲載されています。CONTAX Planar T* 85mm F1.4 の収差図や評は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 コンタックスの軌跡』(朝日新聞社)p.57~58 に収録されています。
実はレンズ構成そのものはUVトプコール53mmと全く変わらない。よって本来53mmとすべきなのであるが、表記の許容範囲と考えて、このレンズから50mm表記となった。が根拠のない捏造記述なのは明らかです。なお、UV TOPCOR 53mm F2 の球面収差もフルコレクションタイプの補正となっていますが、放射・同心像面の補正状態は UV TOPCOR 50mm F2 とはかなり異なり、このことからも両レンズの光学設計が全く異なっていることが分かります。
UV TOPCOR 53mm F2 のテスト記事(『アサヒカメラ 1965年4月号』初出)は『MF一眼レフ名機大鑑』(朝日新聞社)p.66 に、UV TOPCOR 50mm F2 の実測値・収差図・解像力表は『レンズテスト[第1集]』p.146~147に掲載されています。EBC FUJINON 50mm F1.4前期型の収差図は、『カメラドクター・シリーズ〔第1集〕 最新カメラ診断室』(朝日ソノラマ)p.121 と『レンズテスト[第1集]』 p.170 に掲載されています。MC ROKKOR-PG 50mm F1.4 の収差図は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ミノルタの軌跡』 p.70 と『レンズテスト[第1集]』 p.172 に掲載されています。Planar 50mm F1.8 の収差図は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ハッセルブラッド・ローライの名機たち』(朝日新聞社)p.103 と『レンズテスト[第2集]』 p.80 に、HFT Distagon 35mm F2.8 の収差図は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ハッセルブラッド・ローライの名機たち』 p.127 に掲載されています。CONTAX Planar T* 85mm F1.4 の収差図や評は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 コンタックスの軌跡』(朝日新聞社)p.57~58 に収録されています。
しかし、東京光学は1974年4月の HI TOPCOR 50mm F2(4群6枚)で、富士写真フイルムも1974年4月の EBC FUJINON 50mm F1.4後期型(6群7枚)で、ミノルタは1977年の MD ROKKOR 50mm F1.4前期型(5群7枚・フィルター径55mm)で、それぞれ過剰補正型に戻りました。1970年代の早い時期から35mm判一眼レフ用のF1.4クラス標準レンズを補正過剰に戻すことなくコントラスト重視を一貫して維持し続けたのは、国内メーカーでは、おそらくオリンパスのみと見られ、日独両国を通して見ても、エルンスト・ライツとオリンパスの2社のみと思われます。
HI TOPCOR 50mm F2 と EBC FUJINON 50mm F1.4後期型の収差図は、『カメラドクター・シリーズ〔第3集〕 カメラ診断室'76』(朝日ソノラマ)p.60、p.68 に、MD ROKKOR 50mm F1.4前期型の収差図は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ミノルタの軌跡』 p.95 に掲載されています。
現在、オールドレンズを愛好する人々の間では、しばしば “日本の6群7枚構成の標準レンズは CONTAX Planar T* 50mm F1.4 の模倣” などと言われます。なるほど、確かに Planar T* 50mm F1.4 を意識した設計があることは事実(例えば、ミノルタ・山口民和氏による設計の特開昭53-117420、1977年3月23日出願、実施例2・第3図・第4図が MD ROKKOR 50mm F1.4後期型・フィルター径49mm)ではありますが、それを大風呂敷を広げるようにして一般化するのは果たして適切と言っていいものかどうか、首を傾げるところです。
キヤノンの伊藤宏氏は、アサヒカメラ1993年12月増刊『郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編』掲載の座談会(p.119~129)で、
日本人にはドイツのレンズがいいという先入観がありますからね。と語っていましたが、そのようにドイツのブランドを崇める厚い信仰は、現代日本のオールドレンズ愛好者の少なくない一部にカリカチュアライズされた形で継承されていて、オールドレンズを取り上げているネット上のサイトを見たり、オールドレンズ本やライカ本などに目を通すと、時にドイツのブランドやドイツのごく一部のレンズ設計者への歪な崇拝に出会って、勝手に盛り上げたロマンティシズムに自身が絡め取られて溺れ沈んでいくような、荒涼とした知の墓場にも似た文章に、名状しがたい気分を覚えることがあります。
国内のオールドレンズ解説サイトや近年出版されているオールドレンズ本には、執筆者がオークションサイトの転売出品者という例や、中古カメラ・レンズ販売業者と関係を持っている例が少なからず見られ、それらサイトや書籍の記述に中立性や正確さが期待できるのか、疑問なしとしません。
前述のライツとミノルタの提携の際、ライツは1970年に日本へトップの技術者を二人派遣して、日本の光学業界の技術水準を調査しています。その調査でライツは、日本の技術レベルはライツの水準と変わらず、レンズの性能は超一級で、特に小口径と望遠関係で優れており、一眼レフや量産システムも際だって優秀という結論に達しています(『ライカ物語 誰も知らなかったライカの秘密』 p.209)。その提携のもう一方の当事者であるミノルタ側では、年配の技術者の中に、レンズの相互乗り入れでミノルタ側に持ち出しがあっても恩返しするべきと考えて提携に好意的な人たちがいた一方、若手の技術者は冷ややかだったと伝えられます。ミノルタのレンズ設計者、小倉敏布氏は、ライツが欲しがるレンズは多いが、ミノルタが欲しいレンズはほとんどない、ライツには“書画骨董の類”は多いが没落ぶりは想像以上と感じたといいます(草思社 『めざすはライカ! ある技術者がたどる日本カメラの軌跡』 p.255~262・草思社文庫版 p.293~301)。これはツァイスではなくライツの話ですが、しかしこの通り、1970年代を迎えるよりも前に、日本のカメラ・レンズ業界はドイツを模倣する段階をとっくに卒業していたのです。
ライツだけでなく、ツァイスについても見てみましょう。まず、中川治平氏による CONTAX Planar T* 100mm F2(1980年発売、5群6枚・変形ガウスタイプ)の設計評を示します。
日本的な感覚からすれば、この望遠レンズの設計には疑問が残る。理由は、ガウスタイプは望遠比が大きい上に、本レンズは第3レンズが分厚く重くなっているからである。従って、望遠レンズに好ましい構成とは言い難い。確かに、ガウスタイプは優れたタイプであるが、他に解がないわけではない。
ガウスタイプにこだわっているのはドイツ的な設計者気質なのだろうか。あるいは設計者が初心者なのだろうか。わが国のレンズ設計では考え難い。
『レンズテスト[第2集]』 p.150 より
ツァイスの定評ある大口径中望遠レンズが、「初心者」と一蹴されています。CONTAX Planar T* 100mm F2 のテスト記事・収差図・MTF(『アサヒカメラ1980年6月号』初出)は、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 コンタックスの軌跡』 p.49~51 に再録されています。
次いで、CONTAX Planar T* 50mm F1.4 も見てみます。Planar T* 50mm F1.4 の光学設計に当たる、カール=ハインリヒ・べーレンス(Karl-Heinrich Behrens)とエルハルト・グラッツェル(Erhard Glatzel)によるドイツ特許DE2232101C2(1972年6月30日 出願)・米国特許No.3874771(PDF)・特公昭58-57725(日本国特許第1233035号)から、この特許の引用文献を見ていくと、
米国特許No.2735340(1954年6月25日 出願)
イーストマン・コダック(Eastman Kodak): ジョージ・H・エイクリン(George H. Aklin)
米国特許No.2895379(1955年12月30日 出願)
テーラー・テーラー&ホブソン(Taylor, Taylor & Hobson): ゴードン・ヘンリー・クック(Gordon Henry Cook)
ドイツ特許DE1170157(1959年5月16日 出願)
カール・ツァイス(Carl Zeiss): ヨハネス・ベルガー(Johannes Berger),ギュンター・ランゲ(Günther Lange)
Contarex Planar 55mm F1.4(5群7枚)
特公昭41-17176(日本国特許第490982号、1963年2月18日 出願)
オリンパス: 坂元悟
G.Zuiko Auto-S 40mm F1.4(6群7枚)
特公昭42-11291(日本国特許第507997号、1964年2月4日 出願)
日本光学: 松浦睦彦
実公昭42-18597(実用新案登録第844450号、1964年11月12日 出願)
ドイツ特許DE1472185・米国特許No.3560079・英国特許No.1055222
特公昭42-25212(日本国特許第518412号、1964年12月27日 出願)
米国特許No.3451745・ドイツ特許DE1547118
旭光学工業: 風巻友一,高橋泰夫
ドイツ特許DE1277580(1966年1月22日 出願)
カール・ツァイス: ヘルムート・アイスマン(Helmut Eismann)
特公昭44-15515(日本国特許第583021号、1966年4月22日 出願)
キヤノン: 田島晃
特公昭45-39873(日本国特許第610313号、1967年4月28日 出願)
米国特許No.3519333
旭光学工業: 高橋泰夫
ドイツ特許DE1268873・米国特許No.3552829(1967年12月9日 出願)
ドイツ特許DE1269385・米国特許No.3552833(1967年12月30日 出願)
実公昭47-19025(実用新案登録第988843号、1968年6月3日 出願)
小西六写真工業: 木下三郎
HEXANON AR 57mm F1.2(6群7枚)
特公昭49-27699(日本国特許第764949号、1970年5月15日 出願)
米国特許No.3743387
オリンパス: 中川治平
G.ZUIKO AUTO-S 55mm F1.2 銀枠(6群7枚)
特公昭54-43386(日本国特許第1019833号、1970年12月25日 出願)
米国特許No.3738736
と、15の光学設計が引用または引用が指摘され、そのうち日本の設計は、5群7枚設計が1、6群7枚構成の設計が8、合わせて9と、全15の内の6割を占めています。このことから、ツァイスの Planar T* 50mm F1.4 の設計は、日本のレンズ設計の強い影響下にあると言っていいと考えます。事実、ツァイスは日本では特許庁に拒絶査定を突きつけられ、不服審判請求の後も、日本メーカーによる先行例の引用を次々と指摘され続けるなど特許権取得に大変に難渋しており、出願から特許が認められて登録されるまで、実におよそ11年もの長い歳月を要しています。
この6群7枚の変形ガウスタイプの構成について、日本国内のオールドレンズ関連のサイトでは、これにアルプレヒト=ヴィルヘルム・トロニエ(Albrecht-Wilhelm Tronnier)の5群6枚のレンズ名を与えて「ウルトロン型」などとする呼び方が見られますが、この構成が成立する過程にトロニエの設計の直接の関わりはなさそうです。ダブルガウスの第2群の接合メニスカスを分離した5群6枚構成は、オールドレンズを愛好する人々の間では驚天動地の革命的な一大パラダイム転換であったかの如くに非常に大袈裟に語られがちですが、しかしルドルフ・キングズレークは『写真レンズの歴史』(朝日ソノラマ)の p.123 で、その構成のレンズが1930年代初めに多数出てきたと、ごく短く、軽く流すように書いています。接合を分離してそれぞれの面に異なる曲率を与えれば収差がよりよく補正できることは既知の事柄だったようです。トロニエは1930年代半ばになって、そのアイディアを後追いした設計者の一人と見られます。
CONTAX Planar T* 50mm F1.4 の設計も、それに先立つヘルムート・アイスマンのドイツ特許DE1277580 も、確かに5群6枚の設計も引用してはいますが、共通するのはジョージ・H・エイクリンによる設計であり、ヘルムート・アイスマンの方はもうひとつ、ライツのウォルター・マンドラーとエーリヒ・ヴァークナー(Erich Wagner)のドイツ特許DE1064250(1958年7月21日出願)も引用しているものの、いずれもトロニエの設計は引用していません。
『写真レンズの歴史』は第14章に、光学ガラスやレンズの発展に寄与した設計者や製作者を選んで顕彰した「人物略伝」を記していますが、そこにトロニエの項はありません。
ダブルガウス第2群の接合メニスカスを分離して空気レンズを挟む手法を、コマ収差を補正する技術として確立したのは、ミノルタ(千代田光学精工)のレンズ設計者(後にキヤノンへ移籍)で収差論の大家としても知られた松居吉哉氏であり、トロニエではないとする考察が、『ミノルタかく戦えり』(朝日ソノラマ)p.130~136 に述べられています(SUPER ROKKOR 50mm F1.8、1957年発売、1956年7月31日出願・特公昭38-11587)。
SUPER ROKKOR 50mm F1.8 の収差図・MTFは『アサヒカメラ 1993年12月増刊 [カメラの系譜]郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編』 p.81 に掲載されています。
トロニエが1950年に設計した Ultron 50mm F2(米国特許No.2627204・同No.2627205)がコマ収差を Biotar 58mm F2 のおよそ 1/5 に抑えられた理由を『カメラ及びレンズ』(共立出版)は p.202 で、Biotar と Ultron のコマ収差を比較した横収差図を、トロニエ自身が著した『Post war German lens design, progress in photography 1940 ~ 1950』の p.71 から引用しながら、重金属を含む新種ガラスの導入によるとしています。
Ultron などのトロニエによる前群側の接合凹メニスカスを分離したガウスタイプの設計には、1枚目の正レンズと2枚目の正レンズが近接し、2枚目の正レンズと3枚目の負レンズの間隙が大きいという特徴があります。これは、ダブルガウスの前群を変形トリプレット(エルノスター)の前群に置き換えた、ガウスとエルノスターの混合設計と見ることもできます。
ホレース・ウィリアム・リー(Horace William Lee)の1930年の設計に基づく Xenon 5cm F1.5(米国特許No.2019985 ・英国特許No.373950)は、ダブルガウスの最後の正レンズを2枚に分割して5群7枚構成としたガウスタイプの最初期の設計のひとつですが、1960年代初めになって、日本光学の脇本善司と清水義之の両氏によって、この構成がバックフォーカスの長い一眼レフで F1.4 の明るさの標準レンズを、58mm や 55mm にすることなく 50mm で実現できるものであると突き止められました(特公昭40-386、NIKKOR-S Auto 50mm F1.4)。
旭光学の風巻友一と高橋泰夫の両氏が出願した6群7枚構成の米国特許No.3451745 と、ヘルムート・アイスマンのドイツ特許DE1277580 を見ると、ともにオットー・ツィンメルマン(Otto Zimmermann),グスタフ・クライネベルク(Gustav Kleineberg),オイゲン・ヘルマニ(Eugen Hermanni)の3名による5群7枚の設計(ドイツ特許DE1045120 ・米国特許No.3012476)を引用しています。つまり、この6群7枚構成は5群7枚構成から派生して、その5群7枚の第2群の接合メニスカスを分離したものです。
なお、このオットー・ツィンメルマン他による特許を、『カメラマンのための写真レンズの科学』は Summarit 5cm F1.5 の設計としています(p.132)。これに従うなら、6群7枚構成に有名なレンズの名前を付けて呼びたいけれど日本のレンズ名では呼びたくない、舶来レンズの名前でないと絶対にイヤだというのであれば、ウルトロンにはご遠慮頂いて、「変形ズマリット型」あたりにしておくのが無難だろうと思います。ただし、写真撮影用レンズの光学設計や歴史を解説した書籍を見ると、5群6枚であれ5群7枚であれ6群7枚であれ、ダブルガウスの最後の正レンズを分割して2枚にした構成も、ダブルガウスの第2群の接合メニスカスを分離した構成も、「ダブルガウス」「ガウスタイプ」「ガウス型」ないしは「変形ガウスタイプ」「変形ガウス型」としか呼ばれていません。構成分類名称としての「ウルトロン型」とか「変形ズマリット型」などという呼称は存在しません。つまるところ、「ウルトロン型」であれ「変形ズマリット型」と呼ぶのであれ、または他のレンズ名を付けて呼ぶとしても、それらは学問的な裏付けを欠く、オールドレンズ・コレクターの自己満足的な呼び方でしかないことは自覚しておくべきと思います。
作例について。
オリンパスは、このレンズをフォーサーズやマイクロフォーサーズで使用する際の推奨F値を F2.8~F8 としていて、その範囲外での使用は勧められていません。範囲外のF値で撮影した画像は、レンズ設計時に想定されていない画質になっている可能性があります。この推奨F値は、あくまでもフォーサーズ、マイクロフォーサーズの場合に限られるものなので、35mmフルサイズ・デジタルカメラでの使用はF値にかかわらず想定外使用になると思われます。従って、これら非推奨の環境で得られた画質を以てレンズを評価することは慎重であるべきと考えます。
オリンパス株式会社は2020年9月30日、同社の映像事業を子会社の「OMデジタルソリューションズ株式会社」に吸収分割し、その株式の95%を、日本産業パートナーズ株式会社が設立する特別目的会社「OJホールディングス株式会社」に2021年1月1日付で譲渡することで合意した旨を発表しました。
謝辞:
Knights-Fear_Rna-(@RigelNightBug)様、ご紹介と過分のお言葉を頂き、ありがとうございます。
記憶カメラ(@KiokuCamera)様、ご紹介と過分のお言葉をありがとうございます。
ysk(@51vs49)様、高い評価を頂き、ありがとうございます。
サンド(@JuneUnknown)様、嬉しいお言葉と高い評価を頂いて、ありがとうございます。
コンまに(@sstylery)様、Canon FD50mm F1.4の調査結果をお教えくださってありがとうございました。それと、長文どうもすみません(^^;
伊藤浩一(@itokoichi2)様、ご紹介ありがとうございます。
OrdTea様、ご紹介ありがとうございます。
編集履歴:
2019年1月14日 公開
2019年2月16日 CHINON M-1 について追記
2019年2月23日 黒枠 G.ZUIKO銘の個体のシリアルナンバーについて修正・追記
2019年3月24日 NIKKOR-S Auto 50mm F1.4 についてほか加筆
2019年4月17日 ヨーロッパの高級ブランドの異常な値付け例と参考サイトを追記
2019年6月16日 特開昭53-117420について補筆
2019年6月29日 謝辞を記載、本文に若干の補筆と修正
2019年7月6・7日 Ultron 50mm F2 について加筆、出典資料を追記
2019年7月15日 松居吉哉氏について補筆
2019年7月26・27日 若干の補筆
2019年8月11日 F.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.8 後期・黒枠モデルほかについて追記
2019年8月17日 若干の補筆
2019年8月21日 ZUIKO AUTO-S 40mm F2 について補筆
2019年8月31日 フローティング機構について誤りを訂正
2019年9月16日 M-1 ブラックボディと OLYMPUS FTL について追記
2019年9月28日 石油危機のカメラ業界への影響について加筆
2019年10月9・10日 謝辞を追記
2019年10月10日 ドイツ特許DE2232101C2 の引用文献を修正
2019年10月19・23日 1980年代の業界動向ほかを追記
2019年10月26日 トリウムガラスを使用したレンズの生産・販売時期の誤りを修正
2019年11月3日 わずかに加筆
2020年1月8日 特公昭58-57725について補筆
2020年1月19日 カラーフィルムの色再現性と紫外線について加筆
2020年2月21日 謝辞を追記
2020年3月2日 中川治平氏の Planar T* 100mm F2 への評を追記
2020年5月2日 コンまに(@sstylery)様の調査とご指摘に基づき、FD50mm F1.4の構成の誤りを訂正
2020年5月11日 UV TOPCOR 50mm F2、同53mm F2 の実測値と出典を追記
2020年6月28日 FL50mm F1.4Ⅱ の特許文献を追記
2020年8月29日 謝辞を追記
2020年9月4日 OLYMPUS M-1 の量産開始日を追記
2020年9月9日 OLYMPUS OM-1(M-1) の未来技術遺産への登録を追記
2020年9月19日 鏡胴前面の銀枠を取りやめた理由を追記
2020年10月1日 オリンパスの映像事業譲渡の発表を追記
2020年12月3日 OLYMPUS M-1 の生産数に関するデマについて追記
2020年12月29日 ZUIKO AUTO-S 40mm F2 の生産数のデマについて追記
2021年1月23・27日 エルンスト・ライツからライカカメラ社に至る概略を追記
2021年4月17日 TOPCON SUPER DM の発売月の誤りを訂正
2021年4月23日 OLYMPUS M-1 の生産数に関するデマについて加筆
2021年5月19日 謝辞を追記
2021年5月28日 OLYMPUS M-1 の生産数のデマに触れた箇所に、「我楽多屋」「カメラのナニワ心斎橋本店」「クラシックカメラ モリッツ」のデマ記述ページへのリンクを追加
2021年6月6日 G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4 付き OLYMPUS M-1 の発売時価格を追記
2021年6月12日 記述が修正された「カメラのナニワ心斎橋本店」ブログへのリンクを削除
2021年6月15日 高山仁(@takayamajinlens)様のツイートにより、特公昭54-43386の特許請求の範囲に当たるレンズを特定
2021年6月18日 OMシステム終焉の顛末を加筆追記
参考資料(順不同):
カメラマンのための写真レンズの科学《新装版》(吉田正太郎・地人書館・ISBN978-4-8052-0561-7 C3053 ¥2000E・1997年6月20日 新装版初版第1刷,2014年6月10日 新装版初版第5刷)
新装版 現代のカメラとレンズ技術(小倉磐夫・写真工業出版社・ISBN4-87956-043-X C3072 P3000E・1982年1月20日 初版,1995年10月17日 新装版第1刷)
朝日選書684 国産カメラ開発物語 カメラ大国を築いた技術者たち(小倉磐夫・朝日新聞社・ISBN4-02-259784-4 C0350 ¥1300E・2001年9月25日 第1刷)
カメラと戦争 光学技術者たちの挑戦(小倉磐夫・朝日新聞社/朝日文庫・ISBN4-02-261309-2 C0120 ¥580E・2000年9月1日 第1刷)
ライカとその時代(酒井修一・朝日新聞社/朝日文庫・ISBN4-02-261308-4 C0120 ¥880E・2000年9月1日 第1刷)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 ニコンの黄金時代① SP~F3「診断室」再録(朝日新聞社・ISBN4-02-272128-6 C9472 ¥1800E・2000年1月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 ニコンの黄金時代② F4~F100「診断室」再録(朝日新聞社・ISBN4-02-272129-4 C9472 ¥1800E・2000年1月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 ライカの20世紀(朝日新聞社・ISBN4-02-272132-4 C9472 ¥1800E・2000年7月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 キヤノンの軌跡(朝日新聞社・ISBN4-02-272139-1 C9472 ¥1800E・2000年10月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 コンタックスの軌跡(朝日新聞社・ISBN4-02-272141-3 C9472 ¥1800E・2001年3月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 オリンパスの軌跡(朝日新聞社・ISBN4-02-272145-4 C9472 ¥1800E・2001年8月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 ミノルタの軌跡(朝日新聞社・ISBN4-02-272146-4 C9472 ¥1800E・2001年12月1日発行)
アサヒカメラ ニューフェース診断室 ハッセルブラッド・ローライの名機たち(朝日新聞社・ISBN4-02-272151-0 C9472 ¥1800E・2002年3月1日発行)
MF一眼レフ名機大鑑 「ニューフェース診断室」再録 Asahi Camera special issue on Japan's distinguished manual focus SLR cameras(朝日新聞社・雑誌60033-82・ISBN4-02-272154-5 C9472 ¥2000E・2002年5月1日発行)
アサヒカメラ 1979年4月増刊号 35㍉一眼レフのすべて(朝日新聞社・雑誌01404-4・1979年4月5日発行)
アサヒカメラ 1993年12月増刊 [カメラの系譜]郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編(朝日新聞社・雑誌01404-12・T1001404122403・1993年12月20日発行)
アサヒカメラ 2013年8月号(朝日新聞社・雑誌01403-8・4910014030831 00829・2013年7月20日発売・2013年8月20日発行)
[新版]カメラマン手帳 Complete PHOTO dataBASE(朝日新聞社,キヤノン販売株式会社 協力・ISBN4-02-258478-5 C2372 P2000E・1992年3月30日 第1刷)
カメラドクター・シリーズ〔第1集〕 最新カメラ診断室(朝日ソノラマ・0072-003021-0049・1974年8月24日発行)
カメラドクター・シリーズ〔第2集〕 話題のカメラ診断室(朝日ソノラマ・0072-003022-0049・1974年8月24日発行)
カメラドクター・シリーズ〔第3集〕 カメラ診断室'76(朝日ソノラマ・0072-003047-0049・1975年11月30日発行)
カメラドクター・シリーズ〔第4集〕 カメラ診断室'77(朝日ソノラマ・0072-003055-0049・1976年11月30日発行)
カメラドクター・シリーズ5 カメラ診断室 アサヒカメラ連載(朝日ソノラマ・ISBN4-257-03173-5 C0072 ¥1600E・1983年11月30日発行)
カメラドクター・シリーズ6 カメラ診断室 アサヒカメラ連載(朝日ソノラマ・ISBN4-257-03174-3 C0072 ¥1600E・1983年12月31日発行)
クラシックカメラ選書-2 写真レンズの基礎と発展(小倉敏布・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12012-6 C0072 P2000E・1995年8月31日 第1刷)
クラシックカメラ選書-11 写真レンズの歴史 A History of the Photographic Lens(ルドルフ·キングズレーク Rudolf Kingslake・雄倉保行 訳・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12021-5 C0072 ¥2000E・1999年2月28日 第1刷)
クラシックカメラ選書-22 レンズテスト[第1集](中川治平,深堀和良・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12032-0 C0072 ¥1800E・2001年11月30日 第1刷)
クラシックカメラ選書-23 レンズテスト[第2集](中川治平,深堀和良・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12033-9 C0072 ¥1800E・2001年11月30日 第1刷)
クラシックカメラ選書-33 一眼レフ戦争とOMの挑戦 オリンパスカメラ開発物語(米谷美久・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12043-6 C0072 ¥1800E・2005年2月28日 第1刷)
クラシックカメラ選書-39 ミノルタかく戦えり(神尾健三・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12049-5 C0072 ¥1900E・2006年12月30日 第1刷)
クラシックカメラ選書-41 トプコンカメラの歴史 カメラ設計者の全記録(白澤章成・朝日ソノラマ・ISBN978-4-257-12051-3 C0072 ¥1900E・2007年4月20日 第1刷)
カメラレビュー別冊 クラシックカメラ専科No.9 35mm一眼レフカメラ(朝日ソノラマ・62469-44・1987年3月20日発行)
チノン(萩谷剛・p.89)
オリンパスM-1(佐伯恪五郎・p.101)
カメラレビュー クラシックカメラ専科No.20 オリンパスのすべて(朝日ソノラマ・62469-55・T1062469552208・1992年3月25日発行)
カメラ毎日 1979年11月号(毎日新聞社・雑誌02311-11・1979年10月18日発売・1979年11月1日発行)
カメラ毎日別冊 '71 カメラ・レンズ白書 優秀カメラ・レンズはどれか(千葉大学工学部 田村稔研究室 検討グループ・毎日新聞社・1971年5月15日発行)
カメラ毎日別冊 カメラ・レンズ白書 1979年版(毎日新聞社・雑誌02312-12・1978年12月31日発行)
カメラ毎日別冊 カメラ・レンズ白書[2] カメラシステムと交換レンズ(毎日新聞社・雑誌02312-12・1980年12月5日発行)
CAPA特別編集 カメラGET!スーパームック④ 実用中古標準レンズ100本ガイド(島田和也・学研・ISBN4-05-602301-8 C9472 ¥1400E・2000年11月発売)
めざすはライカ! ある技術者がたどる日本カメラの軌跡(神尾健三・草思社・ISBN4-7942-1256-9 C0034 ¥1800E・2003年11月7日 第1刷)
ライカ物語 誰も知らなかったライカの秘密 Leica im Spiegel der Erinnerungen(エーミール・G・ケラー Emil G. Keller・竹田正一郎 訳・光人社・ISBN978-4-7698-1410-8 C0098 ¥2500E・2008年10月7日発行)
写真工業別冊 復刻版 ライカの歴史(中川一夫・写真工業出版社・雑誌04420-11 T1004420113905・1994年11月30日発行)
カメラジャーナル新書別巻 ライカポケットブック 日本版 第二版(デニス・レーニ Dennis Laney・田中長徳 反町繁 訳・カメラジャーナル編集部・株式会社アルファベータ・ISBN4-87198-522-9 C0072 ¥2500E・2001年3月31日 第1刷)
レンズ設計のすべて[光学設計の真髄を探る](辻定彦・電波新聞社・ISBN4-88554-921-3 C3055 ¥3200E・2006年9月10日 第1版 第1刷)
非球面モールドレンズに挑む! ―歴史を変えたパナソニックの技術者たち―(パナソニック スーパーレンズ研究会 著・中島昌也,長岡良富 編・日刊工業新聞社 B&Tブックス・ISBN978-4-526-06836-2 C3034 ¥2400E・2012年2月28日 初版1刷)
光学の知識(山田幸五郎・東京電機大学出版局・ISBN4-501-60390-9 C3042 P3296E・1966年2月25日 第1版1刷,1996年11月20日 第1版19刷)
科学写真便覧 上 新版(菊池真一,西村龍介,福島信之助,藤澤信 共編・丸善株式会社・1960年6月15日)
写真技術講座1 カメラ及びレンズ(林一男,久保島信・共立出版・1955年11月25日 初版1刷,1968年2月5日 初版15刷)
カメラ・レンズ百科 撮影のためのメカニズム知識(写真工業出版社・ISBN4-87956-002-2 C3072 P2900E・1983年4月20日 初版,1991年3月20日 第3版)
シリーズ日本カメラ No.84 現像・引伸し入門(日本カメラ社・ISBN4-8179-5026-9 C2072 P1000E・1989年12月25日 初版発行,1990年3月30日 重版)
カメラ総合カタログ第91号(日本写真機工業会 宣伝専門委員会・1988年3月)
カメラ総合カタログ第103号(日本写真機工業会 宣伝専門委員会・1992年2月)
カメラ総合カタログ VOL.117(日本写真機工業会 宣伝委員会・2001年3月発行)
カメラ総合カタログ VOL.118(日本写真機工業会・2002年3月22日現在)
カメラ総合カタログ VOL.119(有限責任中間法人 カメラ映像機器工業会・2003年3月発行)
アトムレンズの研究 その違いはあったのか(安孫子卓郎・Amazon Kindle版・2015年9月)
オリンパスグループ企業情報サイト
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カメラ設計者 米谷美久 講演会(Web Archive)
カメラミュージアム:OMシリーズ
OMアダプター MF-1 / MF-2 の適合レンズと使用時の注意について
オリンパスの映像事業譲渡に関する正式契約締結のお知らせ
クラカメと旅
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TEST n° 19 - OLYMPUS OM ZUIKO 55mm f/1,2 TESTATO
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LEITZ SUMMILUX
LEICA NOCTILUX
「OLYMPUS OM-SYSTEM G.ZUIKO AUTO-S 50mm F1.4」分解・清掃、コトブキヤ「我那覇響」撮影 - ヨッシーハイム(Web Archive)
会計士によるバリューアップ クラカメ趣味
ニコンカメラの小(古)ネタ(Web Archive)
ニコンF2のライバル オリンパスM-1(Web Archive)
ニコンF2のライバル オリンパスM-1の三面図など(Web Archive)
最後のM-1広告(Web Archive)
TTLダイレクト測光とは(Web Archive)
ニューフェース診断室 オリンパスペン(Web Archive)
ニコンF2のライバル キヤノン F-1初期カタログ 後編(Web Archive)
新製品メモ 「フジノンF1.2 50mm」(Web Archive)
超大口径レンズの性能拝見(Web Archive)
今、再び、「時の話題」レンズにも放射能(Web Archive)
456LABO
カメラのキタムラ ネット中古
All About Photographic Lenses.
Leica Wiki (English)
Leica Lists
50mm f/1.4 Summilux-M II
50mm f/1.2 Noctilux
Xenon f= 5 cm 1:1.5
Summarit f= 5 cm 1:1.5
50mm f/1.4 Summilux-R I
Konica中文资料站
ニッコール千夜一夜物語(Web Archive)
第十六夜 Ai Noct Nikkor 58mm F1.2(Web Archive)
第四十四夜 Nikkor-S Auto 50mm F1.4(Web Archive)
第四十九夜 Nikkor-S Auto 55mm F1.2(Web Archive)
アストロフォトクラブ(Astro Photo Club)
株式会社オハラ:光学ガラスの硝種と性質
光と電磁波とガラスの関係 - ガラスの豆知識 - AGC Glass Plaza
ガラスは紫外線を防ぐ - 中島硝子工業株式会社
パナソニック株式会社
株式会社住田光学ガラス - 会社沿革
テーラーホブソン史 - アメテック株式会社 テーラーホブソン事業部
DKSHジャパンについて - DKSHジャパン株式会社
文部科学省:報道発表
酸化トリウムを含む光学ガラス片の保管について(コニカミノルタビジネスエキスパート株式会社 コニカミノルタ伊丹サイト) - 平成17年6月23日 文部科学省 科学技術・学術政策局 原子力安全課 原子力規制室
酸化トリウムを含む光学レンズ片の保管について(ペンタックス株式会社 ペンタックスオプトテック株式会社) - 平成17年9月28日 文部科学省 科学技術・学術政策局 原子力安全課 原子力規制室
酸化トリウムを含む光学レンズ片の保管について(コニカミノルタオプトプロダクト株式会社) - 平成17年10月6日 文部科学省 科学技術・学術政策局 原子力安全課 原子力規制室
国立研究開発法人 産業技術総合研究所(産総研):沿革
独立行政法人 国立科学博物館
昭和40年の1万円を、今のお金に換算するとどの位になりますか? : 日本銀行 Bank of Japan
年次統計
消える平安朝の大壁画 ホテルオークラ東京建て替え - NIKKEI STYLE
オリンパス、映像事業譲渡の正式契約を締結 - デジカメ Watch
ゴールドムンドGOLDMUNDの真実(おまけ)
2万円と140万円の機器の中身が同じ!? ピュアオーディオの謎 - やじうまWatch(Web Archive)