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三枚接合第二群 ― Takumar 58mm F2 [レンズ]

例えば、こんな書き出しはどうでしょうか。

一世紀ほど前、二つの光学系が衝突した、というより、相互にすれちがった。二、三十年の誤差は問題ではない。このすれちがいには、少なくともそれくらいの時間がかかったからである。ほぼ同じ時期に───両光学系を含むほとんどすべての光学系が、増透膜を持つにいたった。


それはさておき。

Takumar 58mm F2(タクマー58mm F2)は、旭光学工業が1957年に発売した最初の「アサヒペンタックス」の標準レンズです。この初代アサヒペンタックスは、現在は後継機種と区別するため「アサヒペンタックスAP」とも呼びます。アサヒペンタックスAPは、クイックリターンミラー実現米国特許 No.2931072)したアサヒフレックスⅡB、同ⅡAの後、マウントをプラクチカマウント(M42マウント)に改め、ファインダーに国産機としては2番目となるペンタプリズム(ペンタゴナル・ダハ・プリズム Pentagonal dach-prism =“五角形の形状を持つ屋根型のプリズム”の意)を採用してアイレベルでの撮影を可能とし縦位置撮影を容易にした35mm判一眼レフです。ただし、当機発売から少し後よりしばらく、“一眼レフ”はウェストレベルファインダーのものを、ペンタプリズム搭載機は“一眼ペンタレフレックス”、略して“一眼ペンタレフ”や“ペンタレフ”と呼んで区別された時期がありました。

フィルター径は46mm、先端からマウント面までの長さ33.5mm、最大外径54.5mm。質量は公称160gですが、手持ちの個体(シリアルナンバー 15万3千2百台)は186gあります。プリセット絞りで最小絞りはF22、絞り羽根は10枚、最短撮影距離は60cmよりわずかに近く寄れます。マウント面側にはプラクチカマウントの雄ネジがあるのみで、カメラボディ側との連動機構のようなものは全く何もないので、あっけないほどすっきりした佇まいです。レアなレンズではないはずですが、探すと意外に見つかりません。

レンズ構成は4群6枚。最前面の第1群は被写体に凸面を向けた凸メニスカスの単エレメントで正のパワー、結像面側に凹面を向けた第2群は凸メニスカス・凸レンズ・凹レンズの3枚を接合して群全体では負のパワーを持つ接合凹メニスカス、絞りを挟んで、第3群は被写体側に凹面を向けた、かなり厚みのある凹メニスカスの単エレメントで負のパワー、そして結像面に最も近い第4群は被写体側に凸面を向けた平凸レンズで正のパワーを持ちます。つまり、このレンズは4つの群のパワー配置を「正負負正」(凸凹凹凸)とした対称型の構成を採っています。

旭光学は発売当時、このレンズはガウス型でありますので、ゾナー型と比べて色収差が少ないのが特徴で、カラー撮影を考慮し設計いたしました。と公式に発表しています(『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ペンタックスの軌跡』よりp.23、アサヒカメラ1957年9月号初出)。また、丸善が1960年に発刊した『科学写真便覧 上 新版』も、タクマー58mm F2もガウス型の変形である。(p.266)と特に指摘しています。このとおり、Takumar 58mm F2 は、絞りをはさんで前半分はゾナー、後半分はガウスという混合タイプ(小倉磐夫『カメラと戦争』 朝日文庫版p.174)の構成を採った変形ガウスタイプですが、絞りの直後の第3群が凹メニスカスの単エレメントなので、変形クセノタータイプとも言えます。1950年代の日本では、ゾナーとガウスを折衷したレンズ設計が流行していました。
(このレンズの構成図について、“第3群は凹面を被写体側に向けた平凹レンズ・第4群は両凸レンズ”とする説があり、コメント欄にもその旨のコメントを頂きましたが、誤りです。また、当時の旭光学の広告を見ると、第4群の面が逆になっています。実物を手にすれば分解して確認するまでもなく一目瞭然ですが、マウント面側に露出している第4群の最後面は平面です。なお、『科学写真便覧 上 新版』は Takumar 83mm F1.9 についても、p.270にガウス型の変形と明記しています。)

では、アサヒカメラ1957年9月号の第2回「ニューフェース診断室」より、Takumar 58mm F2(シリアルナンバー 132295)の評価を見てみます。担当は浮田祐吉(機械試験所)、木村伊兵衛、小穴純、貫井提吉の四氏です。
 F2レンズの鏡胴は、前方からプリセット絞り環、絞り目盛り環、距離目盛り環と並んでいて、レンズ交換時につかむ所がない。外す時もつける時も、距離目盛り環か絞り目盛り環を持たねばならない。距離目盛り環を持つのがもっとも楽だが、そうすると、レンズを外す時は無限遠まで、つける時は60㌢のところまでいやでもレンズを伸縮させなければならず厄介である。各目盛の字は小さくて読みにくい。(中略)
 測定してみると、明るさの実測値はF2.03でたいへん忠実である。焦点距離は59.81㍉でやや長かった。どんなレンズでも、絞ると開放の時よりピントの合う位置がずれるが、その焦点移動量は絞りF5.6の時0.14㍉延びた。つまり絞れば後ピンになるわけだ。しかしこの量はこれくらいのレンズではひどいほうではない。解像力は図6のようで、F5.6に絞ると開放時よりずっとよくなる。しかし片隅はいくら絞ってもややぼけるようだ。また色収差もかなり大きいのでF2クラスのレンズとしては今後の精進を望みたいところである。
 歪曲はタル型でF5.6の場合、画面周辺部で-3%、極めて大きい値といえよう。このレンズは風景や学術用よりむしろポートレート向きである。レンズ鏡胴が軽合金で軽いのは良い。一眼レフとしては、近接撮影距離を60㌢よりもっと近くまで写るようにしてほしい。


メーカーは答える
 綿密なるご検討をいただきましたが、納得のゆく点については今後研究を重ねてゆく所存です。しかしながら特定の1台のみのテストでカメラ全般を評価するということは適当とは考えられませんし、レンズ部門においては、特に納得のゆかない点があります。(中略)

レンズについて
 解像力の点は本テストと同一条件で測定した結果、当社の社内規格では最周辺部の解像力はF5.6でRtの41本以上でありますので、いま一度ご検討ください。なおこのレンズはガウス型でありますので、ゾナー型と比べて色収差が少ないのが特徴で、カラー撮影を考慮し設計いたしました。歪曲も設計値は2%で、ゾナー型レンズでは普通3.5%程度でありますので、極めて大きいという表現は当たらないと思います。
『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ペンタックスの軌跡』 p.22~23
アサヒカメラ1957年9月号再録
解像力の「Rt」は同心方向、画面中心に対して同心円の方向に並ぶ平行線についての解像力です。

測定結果では、58mmを公称しながら実際にはほぼ60mmという焦点距離の長さが目を引きます。また、「画面中心が最良となるピント面」と「画面全体が平均的に最良となるピント面」が、開放時・F5.6時ともに一致していることから、像面の平坦性はかなり良さそうと推察できます。なお、歪曲収差は、この当時のニューフェース診断室は現在のニューフェース診断室よりかなり厳しく、許容範囲を +1%(糸巻き型)~ -2%(タル型)の範囲に置いていました。

このニューフェース診断室の裏側で、“診断室ドクター”小穴純・東京大学教授と松本三郎・旭光学社長の間に熾烈な議論があったこと、その内幕を、小倉磐夫・東京大学名誉教授は『カメラと戦争』の第3章「カメラを育てた人たち」の中で詳述しています(第3節「研究室へ旭光学・松本社長の怒鳴り込み」、朝日文庫版 p.173~179)。

それによると、ニューフェース診断室の初校では開放時の画質を酷評していたのだそうです。その初校のゲラ刷りをデータチェックのために旭光学に送ったところ、同社から申し入れがあってその部分が削られ、初校の面影はF5.6に絞ると開放時よりずっとよくなる。のフレーズに残るのみと。そして争点はF5.6時の解像力の評価、画面中心から18.6mmの位置で記録された同心方向の解像力 17本/mm という数値に移り、ついには松本三郎社長が本郷の東大・理学部の小穴純教授の研究室に押しかけて直談判に及んだというのです。
 社長の言い分は(中略)「いかに工業技術院機械試験所の測定とはいえ、同心方向ミリ17本とは承服しがたい」というものだ。
 (中略)当時の旭光学はこういっている。「(たまたま購入した)特定の一台のみのテストでカメラ全般を評価するのは適当と考えられません」。つまりカメラには当たり外れがあるから、かなり数をまとめてテストしないと本当のことはわからないというのだ。
 (中略)これは確かに正論のようではあるが、ユーザーの身になってみると(中略)運よく「アタリ」の製品を買った客はよいが、「ハズレ」を引いた客はどうしてくれるのか、という問題が生ずる。
 (中略)初代ペンタックスが登場した時代には、(中略)品質のバラツキの幅はかなりあっただろう。ここに「診断室」の測定では画面隅ミリ17本、メーカーテストでミリ41本という食い違いが生ずる原因があった。
 「診断室」が「片隅はいくら絞ってもややボケる」といっているのは偏芯の存在を示している。(中略)
 小穴教授を相手にこうした解像力数値の押し問答を続けていた松本三郎社長は、「これだけ言ってもわかってもらえないか」という顔をして最後に円筒形に巻かれた大きな紙包みをくるくるほどくと、これがなんと全紙に引き伸ばされたプロの作品。一枚が人物で、一枚が風景だったと記憶するが、「このタクマー58ミリF2で撮った作例です。隅から隅まで実にシャープじゃないですか。小穴先生は隅の解像力がどうのこうのとおっしゃるが、要するによい写真が撮れればよいのです。この作例でどこの隅が甘いかご指摘下さい」。
 この松本三郎社長の迫力に押されて小穴教授も「うむ……」と言ったきり返す言葉に窮したようだった。
小倉磐夫 『カメラと戦争』 朝日文庫版 p.176~179

寄り切られたかに見えるアサヒカメラですが、5年後に一矢報いています。1962年7月号の記事、「どんなレンズがアマチュアに愛用されているか」の一節です。
ごく初期の製品には不十分なものもあり、5年前に本誌ニューフェース診断室で取り上げたアサヒペンタックスの標準レンズなどは、かなり問題が含まれていたが、その後、優秀な設計者が入り、また会社の製造設備なども急速に整備されたため、いまではどのレンズもよい性能を発揮してくれる。
『アサヒカメラ1993年12月増刊 郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編』 p.204
アサヒカメラ1962年7月号再録
一方、旭光学も、アサヒペンタックスS3・オートタクマー55mm F1.8をテストしたアサヒカメラ1961年8月号「ニューフェース診断室」でのコメントでは、
 このたびは弊社アサヒペンタックスS3について、懇切かつ厳密なご検討をお加えいただきましたことを厚くお礼申し上げます。
 国産一眼レフの専門メーカーとして専念してまいりました弊社に対し、幸いにも写真界の皆さまから格別のご愛顧をいただき、今日まで成長を続けてまいりましたことは、まことに有り難く、誌上を通じて深く感謝の意を表する次第でございます。
 皆さまの特別のご愛顧とご鞭撻に対し、ご期待に沿うことが十二分と申しかねるのは、たいへん恐縮にぞんじておりますが、最初のペンタックスから今日のS3までの間に、いちじるしい改良、進歩の跡をお認めいただいたことは、日夜生産、販売に従事し、また研究、改良に苦心しております関係者一同にとって、これ以上の感激はなく、またこれ以上の励ましはございません。
 もちろん製造担当者はこれに甘んじているわけではなく、ご指摘の数々は頂門の一針として改善、進歩の目標としていっそう努力いたす心組みでおります(中略)
 今後ともなにぶんよろしくご指導くださいますようお願いいたします。
『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ペンタックスの軌跡』 p.30
アサヒカメラ1961年8月号再録
と平身低頭、額を地に擦りつけて擦り傷を負いながら土下座し続けているかのごとくの文章を寄せていて、タクマー58mm F2 での気負いと勢いは一体どこに行ってしまったのかと、心配のひとつもしたくなる有様です。

アサヒカメラ1962年7月号にあるその後、優秀な設計者が入り、とは、おそらく、小西六写真工業でレンズ設計に携わっていた風巻友一のことを指すと思われます。小西六の待遇に不満を募らせていた風巻友一は1957年、小西六を飛び出して、旭光学に役員として迎えられました。


現在ではほとんど話題に上ることのない Takumar 58mm F2 ですが、絞りをはさんで前半分はゾナー、後半分はガウスという、今はもう忘れられたレンズ構成の背後には、ガウスタイプの苦闘の歴史と、日本のオリジナルレンズ設計黎明期の息吹があります。





ドイツの数学者、ヨハン・カール・フリートリヒ・ガウス(Johann Carl Friedrich Gauß)は、1817年に凸メニスカスと凹メニスカスを組み合わせた2群2枚の望遠鏡用レンズ構成を考案しました。この構成は、球面収差が光の波長により変化しないという特徴を持ちます。

1888年10月4日、アメリカのアルヴァン・G・クラーク(Alvan G. Clark)は、ガウスの考案した望遠鏡用レンズを凹面を向かい合わせにして対称に配置したメニスカス単エレメント4枚構成の写真撮影用レンズを発明し、特許を出願しました(米国特許 No.399499)。この正負負正の対称型構成を持った4群4枚構成が、「ガウスタイプ」「ダブルガウス」と呼ばれるメニスカス型アナスチグマットのレンズ構成の基本形です。

このメニスカス単エレメント4枚構成のガウスタイプの極端な例として、1933年にロベルト・リヒター(Robert Richter)が発明したツァイスの「トポゴン」(Topogon、ドイツ特許 Nr.636167英国特許 No.423156米国特許 No.2031792)と、その修正コピーとも言えるボシュ・ロムの「メトロゴン」(Metrogon、ウィルバー・B・レイトン Wilbur B. Rayton 設計、米国特許 No.2325275)があります。

1896年、パウル・ルドルフ(Paul Rudolph)が、このメニスカス単エレメント4枚構成に関心を持ちます。この構成は広い空気間隔を持つため、周辺の球面収差が大きく、また中間画角での放射像面と同心像面の隔差=非点隔差(非点収差)が大きいという欠点を持ちます。そこでルドルフは凹のエレメントを厚くして空気間隔を狭くしました。その結果、球面収差と非点隔差は劇的に改善しましたが、その構成で色収差を十分に補正できる硝材が当時まだ存在していませんでした。この色収差を改善するためにルドルフが導入したのが「バリッド・サーフェス(buried-surface)」=屈折率は等しいが分散能が全く異なっているような二つのガラスの張り合わせ面(ルドルフ・キングズレーク『写真レンズの歴史』よりp.121)で、この接合により4群6枚構成としたことで、他の収差に関係なく色収差を自由に補正することが可能になりました。これがルドルフが1897年までに発明した「プラナー」(Planar)です。

4群6枚のガウスタイプのレンズ構成は対称型構成であることから、球面収差・歪曲収差と低次のコマ収差が自然にいい感じに補正されるという特徴を持ちます。反面、ダブルガウスはその構成の自然さから高次のコマ収差の補正に弱く、それが引き起こすコマ・フレアにレンズ設計者の苦闘が長く続くことになります。

加えて、この時代のダブルガウス型レンズにはもうひとつの問題がありました。レンズ構成が4群、つまり空気との境界面が8面もあることから、レンズ面での反射による光の損失が大きく、コントラストも大きく損なわれるのです。

反射防止コーティングがなかった時代の反射の影響はどれほどだったのか。アサヒカメラ1950年3月号で、芳村重成・昭和光機工業技師はこう解説しています。
普通のガラスで1面につき4%、表裏で、合計8%の光が反射する。したがって多数のレンズを組み合わせたカメラでは約35%、さらにプリズム式双眼鏡では50%くらいの光を損失する。
『アサヒカメラ1993年12月増刊 郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編』 p.162
アサヒカメラ1950年3月号再録
一般的には、このように1面に付き4%の光が反射するとされますが、ガラスの屈折率が高くなると反射も増加します。また、アサヒカメラ1952年11月号の記事「写真レンズの謎を解く」に、小穴純・東大教授はこう書いています。
 実際、私どもが2体レンズのタゴールで撮った写真と、4体レンズのプラナーで撮った写真とではネガで見れば、すぐに区別がつきます。タゴールで撮った写真は、清澄で秋晴れのごとく、プラナーの写真は陰うつで冬の曇天下のようだったのです。
 それでツァイスなどでは、特にやむを得ない場合を除き、写真レンズは3体を標準として設計していました。トリオター、テッサーはもとより、ゾナー系のレンズはみな3体です。またビオター、ビオゴン、オルトメターなどは残念ながら、やむを得ず4体にしたもので、5体レンズというのはとんでもないという調子でした。
『アサヒカメラ1993年12月増刊 郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編』 p.148
アサヒカメラ1952年11月号再録

反射防止コーティングが実用化されていない時代に反射光による光の損失やコントラストの低下を防ぐ方法はただひとつ、レンズ構成の群数をできるだけ少なくして空気との境界面を減らすしかなかったのです。そこでこの時代、レンズのエレメント(枚数)を増やす場合、接合する枚数を増やすという手法が一般的でした。しかし接合は収差補正の自由度を縛ります。接合面は二つのレンズの曲率を完全に一致させる必要があるためです。曲率が一致していなければくっつけられません。接合しないことにすれば二つの面にそれぞれ異なる曲率を与えられ、収差補正の自由度は格段に上がります。自由度が上がることは分かっているものの反射光の影響は如何ともしがたく、分かっていても躊躇せざるを得なかったのです。

高次のコマ収差がコマ・フレアを引き起こしてコントラストを悪化させてしまう。収差があるなら収差を補正すればいいのですから、収差を補正するために、レンズの構成枚数を増やすか、または、接合を分離して収差補正の自由度を増せばよさそうです。しかし、接合しない独立した群としてレンズを追加すれば、あるいは接合を分離して群数を増やせば、空気との境界面が1群に付き2面も増えてしまう=コマ・フレアが解消してコントラストが向上したとしても、増えた反射光が画質を損ないます。

1920年、ホレース・ウィリアム・リー(Horace William Lee)はフリントガラスより屈折率の高いクラウンガラスを使用して、構成図上は対称な4群6枚ながら収差補正を非対称とした「Opic」(または「シリーズO」)を送り出します。

1930年、H.W.リーは、ダブルガウスの一番後ろの凸レンズ1枚を2枚に分割した5群7枚構成(米国特許 No.2019985英国特許 No.373950)を発明。この設計によるレンズはエルンスト・ライツとシュナイダー社の共同事業で製造され、1936年にライカ用交換レンズ「Xenon 5cm F1.5」として発売されました。
(Xenon 5cm F1.5 の設計者を、M42 MOUNT SPIRAL滲みレンズ上野由日路『オールドレンズ×美少女』(p.153, p.156)などはトロニエとしていますが誤りです。中川一夫は『ライカ物語』のp.254にLEITZ XENONはTAYLOR-HOBSON社のパテントを使用していると記し、また、シュナイダー社が製造に関与したことは明記しながら、しかし光学設計への関与に関する記述はありません。)

1950年代末から60年代初め、一眼レフでF1.4の明るさの標準レンズを50mm化する可能性の検討と研究が日本光学で集中的に行われ、脇本善司と清水義之によって、ガウスタイプの第4群の凸レンズを二枚に分割した5群7枚構成にすればバックフォーカスを確保しつつ50mm化が可能な上、収差補正も良好なことが突き止められました(1962年3月13日出願・特公昭40-386Nikkor-S Auto 50mm F1.4)。この構成自体は既にH.W.リーが1930年に開発済みでしたが、長いバックフォーカスで50mm化と大口径化がともに可能な構成とは、このときまで全く考えられていませんでした。この発見をミノルタのレンズ設計者、小倉敏布は 『写真レンズの基礎と発展』のp.141~142にこう書いています。
 この発見は、それまでF1.4の50mm化は無理であると考えていた設計者たちの大方の予想を裏切ったものであった。コンピューターの導入で計算能力が急増した中で、これまで不可能と思い込んでいたのは、そのような設計上の「解」があることを知らなかったにすぎないという反省も生まれるようになった。
 (中略)一見、似ていても、バックフォーカスの長い大口径に最適であることをつきとめ、具体的な設計的解を見いだしたのは、新たな発明といえるのである。
その後、この構成の第2群を分離して収差補正の自由度を高めた6群7枚構成を、1963年にオリンパスの坂元悟(特公昭41-17176、G.Zuiko Auto-S 40mm F1.4)が、1964年に旭光学の風巻友一と高橋泰夫(特公昭42-25212)が開発、1975年にはその構成でF1.2の50mm化も実現しました(SMC PENTAX 50mm F1.2、1975年6月発売)。このような開発の経緯から、これら6群7枚構成をウルトロン型などと呼称するのは不適当と考えます。風巻・高橋特許はトロニエの特許を引用しておらず、類似文書にもトロニエの特許は一つも挙がっていません

上記の5群7枚構成のほか、1930年代初めにはプラナーの変化型が多数現れます。その多くは前群の第2群の接合を分離するものでした。そのトレンドを追うかのように、1934年、シュナイダー社も4群6枚構成の Schneider-Kreuznach Xenon 5cm F2 の2枚目と3枚目を分離した5群6枚構成のモデルを発売しました。
M42 MOUNT SPIRALがこのレンズの設計としている米国特許No.2627204同No.2627205はいずれも1950年出願で、1934年の Xenon 5cm F2 が1950年の設計によってコマフレアと像面湾曲の同時補正を行ったとすると、タイムマシンの存在でも想定しないと辻褄が合いません。1934年の Xenon 5cm F2 は設計に新規性がなかったのか、特許が見当たりません。なお、アルプレヒト=ヴィルヘルム・トロニエ(Albrecht-Wilhelm Tronnier)は1935年に、2枚目と3枚目の接合を分離し、第4群を3枚接合とした5群7枚構成の設計を行っています。トロニエは間違いなく優秀なレンズ設計者ではありますが、しかしオールドレンズ界隈では実態から掛け離れた異様なカルト的信仰が目に余ります。)

しかしながら、どちらのXenonも5群、空気との境界面は10面に増加しています。前掲の小穴純教授の文章にある、5体レンズというのはとんでもないの5群です。

1936年、アーサー・ワーミッシャム(Arthur Warmisham)は、第2群と第3群をそれぞれ3枚接合とした4群8枚の設計で、高次収差を利用してコマ・フレアの除去を試みましたが、成功したとは言いがたかったようです。

「高次収差を利用」とは、意図的に高次収差を発生させて、その高次収差を補正することで、各種の収差をまとめて一気に補正してしまおうとする手法、「高次の収差補正」と呼ばれる技術です。新種ガラスがまだ実用に供されていないこの時期に高次の収差補正を行おうとすると、どうしても3枚ないしそれ以上のレンズを接合するしかありませんでした。ゾナーが3枚接合を採用していたのも、同じ理由です。


ゾナーは元をたどると、1893年にハロルド・デニス・テイラー(Harold Dennis Taylor)が開発した3枚玉の写真レンズ、トリプレットに始まります。

1916年、チャールズ・C・マイナー(Charles Clayton Minor)は、トリプレットを明るくする方法として、トリプレットの前側の空気間隔に凸メニスカスのエレメントを入れた4枚玉レンズを提案、多くの社がシネカメラ向けに供給しました。この変形トリプレットのレンズ構成が、後のエルノスタータイプ及びゾナータイプの基本形です。すなわち、エルノスターやゾナーは変形トリプレットに属する非対称光学系です。

1919年にルートヴィヒ・ベルテレ(Ludwig Bertele)は、マイナーの4枚玉レンズの前群2枚をそれぞれ2枚接合のレンズ(ダブレット)に変え、1922年にはエルノスター(Ernostar)を開発、1924年の改良で、画角を少し広げながらF1.8まで明るくしました。

1931年、ベルテレはF2のゾナー、Sonnar 5cm F2 を開発しました。さらに1932年には Sonnar 5cm F1.5 を開発、1937年の再設計(フランス特許 Nᵒ837616米国特許 No.2186621)では従来通りの3群のほか、後玉に薄い凸レンズを追加して各群のパワー配置を「正負正正」(凸凹凸凸)とした4群8枚構成も検討しています。

ゾナーは前述の通り、高次の収差補正、“毒を以て毒を制す”とも言われる補正を行うレンズです。第3群の曲率の強い接合面で高次収差をわざわざ発生させて、それを第2群の3枚接合=屈折率の高い硝材で作られた凸メニスカスと凹レンズで屈折率の低い硝材の凸レンズをサンドイッチにした第2群で補正して、各種収差をまとめて補正しているわけです。つまりゾナー前群の第2群には高次収差を補正する能力があります。ガウスタイプの Xenon 5cm F2 では5群6枚化した際に2枚目と3枚目の間に空気を挟みましたが、この当時に使えた硝材では空気レンズを挟んでもこの能力を得るのは難しく、ガラスレンズを挟む必要がありました。この収差補正手法によってゾナーはコマ収差の補正に優れ、それがこの時代のガウスタイプに対する大きな優位の源となっていました。

ゾナー前群の第2群の3枚接合でサンドイッチ的に挟まれている、低い屈折率の硝材で作られているレンズですが、後に新種ガラスと反射防止コーティングが実用化されると、この挟まれたレンズに屈折率を思いっきり低くした光学材料が使えるように、すなわち、空気レンズに置き換えることが可能になりました。そしてこのゾナーの前群は、接合凹メニスカスを分離して空気レンズを挟んだ変形ガウスタイプの前群の構成と、実質的に同じものです。

では、こんな高度な収差補正を行っているゾナーはいいこと尽くめかというと、そうでもありません。まず、ゾナーはトリプレットから派生した変形トリプレットに属する構成なので、パワー配置が前後で非対称なテレフォトタイプに相当し、広画角化が困難です。加えて、第2群が3枚接合である=トリプレットの中央レンズが接合構成である点は大口径化には有利ですが、有用な画角が狭くなるという代償を払うことになります。これはバックフォーカスが長くなるほど厳しくなります。また、非対称構成ゆえに色収差や歪曲収差は弱点になります。さらにもうひとつ、ゾナーは近距離収差変動が大きい、つまり撮影距離が近くなると急激に収差が悪化し画質が落ちるというウィークポイントを持ちます。ゾナーがこの時代にガウスタイプに対して持っていた優位性は、当時はまだ一眼レフ=長いバックフォーカスが必要で、パララックスがないため接写が行いやすい構造のカメラが全く主流ではなかった点にも負っています。


1938年11月5日、東京光學機械株式會社(現在のトプコン)の富田良次が、第2群を凸メニスカス・凸レンズ・凹レンズの3枚接合とした4群7枚構成の「Simlar 5cm F1.5」の特許を出願、1940年6月15日に公告、同1940年9月19日、特許第138670號として成立します。写真レンズとしての発売は、1947年発売のレオタックスDⅢに少数が供給されたという説もありますが、本格的な販売は1950年のレオタックスDⅣからとされます。ただし、戦時中にも生産されていたらしく、X線間接撮影用カメラに装着されていたほか、数量は不明ながら、日本光学や精機光学(キヤノン)でも生産されていた記録があります。

Simlar 5cm F1.5 は、ガウスタイプの後群に、ゾナーの前群を合体させた折衷構成のレンズですが、では、このレンズ構成はゾナーでしょうか、ガウスでしょうか。中川レンズデザイン研究所の中川治平はこの設計について、こう書いています。
しかし、ガウスとゾナーの前群は本質的な差がない。
中川治平,深堀和良 『レンズテスト[第1集]』 p.108
前群についてはゾナーもガウスも「本質的な差がない」となると、前群だけ見ていてはレンズ構成のタイプ分けができないことになります。つまり、後群に注目しなければなりません。そしてこのシムラーの後群はガウスタイプですから、その後群に“ガウスタイプと「本質的な差がない」”ゾナーの前群を導入した Simlar 5cm F1.5 のレンズ構成は当然にゾナーではなく、変形ガウスタイプです。だいたい、パワー配置自体、ガウスタイプの前後対称な構成がそのままですから、ゾナーと見る余地はもともとないわけです。

Simlar 5cm F1.5 は、それまで欧米のレンズをコピーするばかりだった日本で初のオリジナル設計のレンズです。このシムラーは、ガウスタイプのネックだったコマ・フレアの除去に成功し、そして戦後日本のオリジナルレンズの出発点にもなりました。

やや遅れて、このシムラーに似たレンズが出てきます。英国・ダルメイヤー社の「セプタック」(“7枚玉”の意)、SEPTAC ANASTIGMAT 2inch F1.5 です。設計者はバートラム・ラングトン(Bertram Langton)、特許の出願は1942年3月7日です。


ガウスがゾナーに太刀打ちできなかった原因に、第二次世界大戦以前のレンズ設計には厳しい制約があったことも挙げられます。その制約要因は、レンズ表面の反射光、硝材の性能、計算能力の三つ。ところが、それら制約が第二次大戦直前の1930年代後半から相次いで解消されはじめます。

反射光は、1896年にデニス・テイラーが、ヤケを生じたレンズの中に透過率のよいものがあることから、レンズ表面に薄い膜を形成すれば反射が防げることを発見し、ドイツでは1935年にツァイスが、アメリカでは1936年に J.Strong が、屈折率が低く丈夫な薄膜を真空蒸着で付ける技術を開発しました。その後、アメリカでは1941年にイーストマン・コダックが実用化し、広範な製品にコーティングを施すようになりました。日本では当時これを「増透処理」「増透膜」と呼んでいましたが、まず1939年に日本光学で J.Strong の「ストロング特許」の追試を開始、1942年5月に横須賀海軍工廠で本格的な開発がスタートします。蒸着に必要な高真空状態が当時の日本では得られず難航しつつも1943年に目処が立ち、1944年に実用化されて双眼鏡や潜望鏡に施されました。日本光学の八八式10メートル三型潜望鏡では、コーティングなしでは透過率10%だったものが、コーティングが施されると透過率は25%へと、2.5倍に向上しています。

硝材は、アメリカ、ワシントン・カーネギー協会の地球物理学研究所でG.W.モーリー(George W. Morey)が1934年から続々と開発した新種ガラスを、イーストマン・コダックが内側にプラチナをコートした坩堝、白金坩堝を開発して1937年に熔解に成功し、商業化に目処を付けます。一方、ドイツでは1926年にゲルツ社が新種ガラスの供給を始めており、また、ショット社でも新種ガラスが開発されていきます。その後アメリカでは、第二次世界大戦中にコーニング社が連続炉で作る技術を開発しました。日本では、まず日本光学が1948年8月に新種ガラスの溶解に成功、1951年に通産省主導で国内の光学企業5社による新種ガラスの国産化事業が始まり、1954年に成功しましたが、その同じ50年代、アメリカではコーニングとボシュ・ロムが、さらに高精度な新種ガラスの製造に成功していました。
(エルンスト・ライツは3群5枚構成だった Elmax 50mm F3.5 を、1926年にゲルツの硝材を用いて3群4枚構成の Elmar 50mm F3.5 に変更しています。ゲルツはその後ツァイスに編入されました。)

計算機は、この当時はまだ歯車を用いた機械式計算機が主流で、人が手で回すもののほか、モーターで回す電動化されたものがありましたが、いずれも基本的には1874年のオドナー式計算機のアーキテクチャに準拠したもので、オドナー式計算機自体も1673年のゴットフリート・ヴィルヘルム・フォン・ライプニッツの計算機に改良を施したものにすぎませんでした。電動計算機を用いた計算では、検算の手間も含めて、1本の光線がレンズの1面を通過する計算に30分を要するという記述が、川合敏雄「工業用テレビジョンの光学的研究(第四報~第六報)」(日立製作所・1955年6月~1956年9月、日本初のズームレンズ設計)にあると、『カメラと戦争』の朝日文庫版 p.198で紹介されています。

しかし1936年に重要な論文が発表されます。まず、アラン・チューリング(Alan Mathison Turing)の「On computable numbers, with an application to the entscheidungsproblem」(計算可能数とその決定問題への応用)。ついで12月、日本電気の中嶋章と榛澤正男が「継電器回路に於ける單部分路の等價變換の理論(其一)」を発表。この中嶋・榛澤論文で、ブール代数による論理演算が電子回路で実行可能なことが史上初めて示され、コンピュータ時代の幕が開きます。

一般に、電子回路上でのブール代数による論理演算の可能性を示した論文は、クロード・シャノン(Claude Elwood Shannon)が1937年に発表した「A Symbolic Analysis of Relay and Switching Circuits」(リレーとスイッチ回路の記号論的解析)が最初であるかのように言われますが、シャノンに対しては剽窃疑惑が公然と指摘されていたことが、遠藤諭『計算機屋かく戦えり』・同『新装版 計算機屋かく戦えり』ともに p.57に記載されている喜安善市の証言にあります。
 この問題については、東北大学の後輩で中嶋氏と親交のあった喜安善市氏は、
「戦争直前に、中嶋さんはアメリカに出張して、ベル研究所で論理回路についての講演を行っているんです。日本電気とベル研究所の契約があってね。そこにはシャノンも来ていて、講演の後、中嶋さんに個人的に質問をしてきたというんです。両氏の論文を要約した英訳も入手していてね。ただ、そのことについてシャノンの論文はまったく触れていない。関数論的回路網で知られるドイツのピロティなどは、シャノンの論文には中嶋たちへのコメントが必要だと怒ってましたね。やはり同じころに論理回路についての論文を発表したドイツのピーシュは、ちゃんと中嶋の名前をその論文の中に記しているのに、ってね」
と、語っている。

中島・榛澤論文より前の1934年、富士電機の塩川新助が2進法によるリレー回路を開発、その後1939~40年に2進法10桁の四則演算及び10進法と2進法の相互変換機能を持つリレー式計算機を開発しています。

1937年にハワード・H・エイケン(Howard Hathaway Aiken)は計算機械の構想を発表。1944年に完成した、そのアメリカ初の電気機械式計算機「Automatic Sequence Controlled Calculator」(自動逐次制御計算機)は「Harvard Mark Ⅰ」とも呼ばれます。この計算機は主に米海軍で弾道計算や軍艦設計に使われましたが、レンズ設計に関する問題の解決にも使われました。

同じくアメリカで、1946年に、一般に世界初のコンピュータとされ、よく知られている、プレスパー・エッカート(John Presper Eckert)とジョン・モークリー(John William Mauchly)による「ENIAC」(Electronic Numerical Integrator and Computer)が発表されました。

1934年から計算機械の開発を進めていたドイツのコンラート・ツーゼ(Konrad Zuse)は、1941年にリレー式(電気機械式)計算機「Z3」を完成させ、1949年にツーゼKG(Zuse KG)を設立。同社はエルンスト・ライツの発注を受けて、同社としては最後のリレー式計算機「Z5」を開発して1952年に納入しています。この後、ツーゼKGは開発を電子式に転換し、「Z11」、「Z22」、「Z23」などのコンピュータはレンズ設計用としてヨーロッパの多くの光学企業が導入しました。また、日本光学も日本企業としてはかなり早い1957年にツーゼのリレー式計算機(おそらく「Z5」)を導入していたことが、ニコン・更田正彦顧問(1996年当時)の証言に伺えます(遠藤諭『計算機屋かく戦えり』・同『新装版 計算機屋かく戦えり』ともにp.181)。

2,200個の電話用リレーを用いた「Z3」は、35mmフィルムに穿孔記録したプログラムを読み込んで動作する計算機で、プログラム制御可能な計算機はこれが世界最初だったことから、Z3 を世界初のコンピュータとする見方もあります。Z3 は第二次大戦中に連合軍の空襲で破壊されましたが、開発中の「Z4」は地下室にあったため破壊を免れ、ベルリンがソ連軍によって陥落する数日前にドイツ南部へ疎開、1946年にフュッセンに近いホプフェラウに移り、村人を前にデモンストレーションを行っています。1949年、スイス、チューリヒにあるスイス連邦工科大学(Eidgenössische Technische Hochschule、略称 ETH)の応用数学科主任教授エドゥアルト・シュティーフェル(Eduard Stiefel)がホプフェラウを訪れ、微分方程式を解くプログラムの作成をツーゼに依頼、Z4 はそのプログラムから正しい解を出しました。ETH は Z4 を3万スイスフランで5年間のリースを願い出て、ツーゼはそれを受けて、カッセル近郊のノイカーフェンで Z4 を6ヶ月かけてオーバーホールした後、チューリヒへ送り出しました。Z4 は ETH で、ジェット機の翼の振動、世界最大の重力式コンクリートダムとなるグランド・ディクセンス ダムの設計に関わる計算、タービンの臨界スピード、光学上の問題の計算などを安定してこなしました。

1943年にイギリスのトーマス・フラワーズ(Thomas Harold Flowers)らのチームが、ドイツのローレンツ暗号機(Lorenz SZ40/42)の暗号を解読するために開発し、数学者マクスウェル・ニューマン(Maxwell Herman Alexander Newman)らによって運用された「Colossus」、及びその改良型「Colossus Mark-Ⅱ」(1944年)は 1,500本の真空管からなる電子計算機で、これを世界最初のコンピュータとする見方もありますが、コンピュータの定義を“プログラム可変内蔵方式であること”、いわゆる「ノイマン型」であることとした場合、世界初のコンピュータは、イギリス、マンチェスター大学のフレデリック・C・ウィリアムス(Sir Frederic Calland Williams)とトム・キルバーン(Tom Kilburn)による「Manchester Small-Scale Experimental Machine」(別名「Baby Mark-Ⅰ」、1948年6月21日稼働、「Manchester Mark-Ⅰ」の原型機)となります。その後、1949年5月6日に同じくイギリス、ケンブリッジ大学のモーリス・ヴィンセント・ウィルクス(Maurice Vincent Wilkes)が開発したノイマン型の「EDSAC」(Electronic Delay Storage Automatic Calculator)が稼働を開始しています。このように、コンピュータの開発ではイギリスも先進国であり、またコンピュータを用いたレンズ設計の初期の例としては、やはりイギリス、レイ社(Wray (Optical Works) Ltd.)の C.G.ワイン(Charles Gorrie Wynne)による仕事が知られています。

「Colossus」は長く機密とされていましたが、1976年に一部の情報が機密解除され公開されたことから、その存在が公になりました。話が大きく脱線しますが、1966年にD・F・ジョーンズ(Dennis Feltham Jones)が「Colossus」というSF小説を書き(邦訳は『コロサス』、岡部宏之 訳・早川書房 ハヤカワSFシリーズ 3220、1969年5月31日 刊)、その後、1974年に「The Fall of Colossus」、1977年に「Colossus and the Crab」の二つの続編を書いています。SF小説「Colossus」は1970年に「Colossus: The Forbin Project」(邦題は『地球爆破作戦』)のタイトルで映画化されています。D・F・ジョーンズは第二次大戦中は英海軍中佐の地位にあり、ローレンツ暗号解読機「Colossus」の情報に接しうる立場だったと言われます。SF小説『コロサス』および映画『地球爆破作戦』…コンピュータが人類を支配するというディストピアSF作品…に登場するコンピュータ「COLOSSUS」は、この暗号解読機「Colossus」が元ネタと思われます。

日本では富士写真フイルムの岡崎文次がレンズ設計の計算を目的に1949年3月に開発に着手、1956年3月初めに日本初のコンピュータ「FUJIC」を完成させ、稼働を開始しました。しかし、社外からの注目は開発中から高かったにもかかわらず社内の反応は冷淡で、同社はわずか2年半後にFUJICを早稲田大学に寄贈し、社外に事実上“投棄”しました。レンズ設計の社内体制が変わったためとされますが、当時、レンズ設計体制の変更自体がFUJIC開発への懲罰措置ではないかと疑う見方が囁かれていました。諺に曰く「出る杭は打たれる」などと言いますが、富士写真フイルムは、出る杭を切り捨てたのです。岡崎文次は後に日本電気の初代のソフトウェア課長に迎えられました。


戦争が終わった後、1940年代末~1950年代になると、日本国内では Simlar 5cm F1.5 に範を取ってゾナー前群を導入した変形ガウスタイプのレンズが、Solinon 50mm F1.5(1948年・土居良一設計、第2群を4枚接合とした4群8枚構成)、Serenar 85mm F1.5 Ⅰ(1952年)、Takumar 83mm F1.9(1953年・1957年、ゾナーとする雌山亭アサヒペンタックスSシリーズ博物館の記述は誤り)、G.Zuiko 4.5cm F1.9(山田幸五郎『光学の知識』よりp.170、おそらく1956年1月発売の「オリンパス35-S 1.9」)など、相次いで試作あるいは発売されました。当時の日本のレンズ設計者の多くは、オリジナルの設計を始めるに当たって、富田良次のシムラーの発想を叩き台にして、そこからスタートしていたわけです。

1957年の Takumar 58mm F2 も、この流れの中で投入された変形ガウスタイプのレンズのひとつで、シムラーに倣ったゾナー前群に変形ガウスの、と言うか、クセノタータイプの後群を合体させた構成です。同様の、第2群を3枚接合・第3群を凹メニスカスの単エレメントとした4群6枚構成の変形ガウスタイプの設計は、キヤノンの伊藤宏も1956年に行っています

日本のレンズ設計黎明期の実態は、いわゆる「ニコン神話」にマスキングされて見えにくくなっています。ちなみに、三木淳がデイヴィッド・ダグラス・ダンカン(David Douglas Duncan)を撮ったレンズについて、D.D.ダンカンは Nikkor-S·C 5cm F1.5 だったはずだと証言しています(アサヒカメラ2008年7月増大号 p.249~253、「<ニッコール75周年> デビッド・ダグラス・ダンカン ─ニッコール伝説を語る─」)。ニコンがニコン創立100周年記念の一環としてニコン公式チャンネルで公開したインタビュー動画「デイヴィッド・ダグラス・ダンカンとの出会い」でも、D.D.ダンカンは Nikkor P·C 8.5cm F2(ツァイスのシネ用のゾナーF2を比例拡大したレンズ=『アサヒカメラ1993年12月増刊 郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編』 p.119 より脇本善司の証言)の名を出していません。このインタビューで、ダンカンは
Jun Miki, who was photographing for Life, came into Life office. and said, "Dave-san, may I photograph you?"
It was late evening — Chak! One shot.
I said, "Jun, you're wasting your time; there's no light."

写真家の三木淳氏もライフ誌のために写真を撮っていて、ライフのオフィスにやってきた。そこで「デビッドさん、あなたの写真を撮らせてもらってもいいですか?」と言ってきた。
夜遅い時間だった。一枚、パッと撮った。
私は「ジュン、時間の無駄だよ。光が足りないんだから」と言ったんだ。
と、It was late evening (夜遅い時間だった。)と特に強調して、三木淳が使ったレンズが Nikkor P·C 8.5cm F2 ではなく Nikkor-S·C 5cm F1.5 だったことを強く示唆しています。


クセノタータイプは、レイ社(Wray (Optical Works) Ltd.)の C.G.ワイン(Charles Gorrie Wynne)が開発設計した「ユニライト」(Unilite)に始まります。

1944年、ガウスタイプの後群・第3群の接合を分離した設計を進めていたC.G.ワインは、分離した凹レンズを、絞りに向かって深い凹面を持つ凹メニスカスにしたところ、分離した凸レンズが不要になることを見出しました。これがユニライトシネ・ユニライト(Cine Unilite)で、1945年には明るさF1.0のオシロスコープ表示画面撮影用レンズも開発されました。

このレンズ構成が他社でも採用されるようになり、そのひとつが、1952年にギュンター・クレムト(Günther Klemt)とカール・ハインリヒ・マッハー(Karl Heinrich Macher)が設計した「クセノタール」、Xenotar 80mm F2.8 です。このレンズ構成が今日、慣例的に「クセノタータイプ」と呼ばれている、ガウスタイプに含まれるバリエーションです。この構成を中川治平はこう解説します。
もともとガウスタイプは接合面前後の屈折率差が小さいので、正負レンズが同じガラスになるよう最適化しても、クセノタータイプに到達する。
中川治平,深堀和良 『レンズテスト[第1集]』 p.36
一方で、小穴純・東大教授が、この構成をビオター型の前玉とトポゴン型の後玉とを組み合わせた一つの混血児と考えるのが適当と思う。と見る解釈を提唱した(アサヒカメラ1954年7月号「優秀な混血児」初出、『アサヒカメラ1993年12月増刊 郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編』 p.186。この当時は一般の写真愛好家の間では、ガウスタイプを「ビオター型」と呼ぶのが一般的だったようです)ことから、日本ではクセノタータイプを、ガウスタイプにトポゴンを合わせて開発された新構成とする捉え方が根強く、クセノタータイプを変形ガウスタイプとは別物と見なして非常に神経質に峻別したがる傾向があります。しかしトポゴンは先に示したとおりガウスタイプですから、クセノタータイプの構成を「ガウスタイプの前群にトポゴンの後群を折衷したもの」とする解釈を採ると、それは取りも直さず「前群はガウスで後群もガウス」に他ならず、クセノタータイプは即ち、ガウスタイプ以外の何ものにもなりようがありません。小穴教授は同時にビオメタール型レンズと呼ぶことにしたい。とも提唱したのですが、こちらは定着しませんでした。

小穴純教授がアサヒカメラ1954年7月号誌上で提唱したクセノタールの構成解釈はレンズマニアの間で伝言ゲーム化し、その末端プレイヤーたる現代日本のオールドレンズ界隈では、Xenotar 80mm F2.8 がガウス前群にトポゴン後群を配して開発されたかのような言説が、M42 MOUNT SPIRALなどに見られるように広く流布していますが、そのような史実はありません。

Xenotar 80mm F2.8 の特許を見ると、ドイツ特許 DE1015620 の引用文献、及び米国特許 No.2683398 の引用文献のいずれでもトポゴンの特許は全く引用していませんが、しかしC.G.ワインのユニライトの特許は引用しています。そして、ユニライトの米国特許 No.2499264 の引用文献を見ると、こちらはトポゴンの特許を引用しています。

現代日本のオールドレンズ界隈では、キヤノンの辻定彦による解説、後群メニスカスレンズの厚みによりGauss省略タイプと見るか、(中略)Xenotarと見るかが分かれる。(電波新聞社『レンズ設計のすべて』p.99)を根拠として、後群メニスカスレンズに厚みがあるという理由でユニライトをクセノタータイプに含めず、後群メニスカスレンズがトポゴン同様に薄いという理由でビオメタールやクセノタールをクセノタータイプの始祖とする見方があります。また辻定彦は同書のp.149で、XenotarはGaussタイプの前群とTopogonの後群を組み合わせたものと見ることができる。としていますが、この文には、設計当時の状況はわからないが、という前置きがあり、設計の経緯を全く調べていないことが明確に示唆されています。そして、前述の通り、それぞれの特許の引用文献を見ると、クセノタールの特許はユニライトが引用されている一方でトポゴンの引用はなく、ユニライトの特許はトポゴンを引用しています。従って、特許文献によって明らかになる経緯から、ユニライトと、ユニライトの構成を引き継いだクセノタールの構成分類を、後群メニスカスレンズの厚さという曖昧な根拠のみから別種と見なして分ける見方は不適当と言えます。変形ガウスタイプの一種であるクセノタータイプは疑問の余地なくユニライトに発し、ユニライトはクセノタータイプに属します。

1961年1月発売のキヤノネットの「CANON LENS SE45mm F1.9」は4群5枚の典型的なクセノタータイプですが、これを当時、キヤノンはガウスタイプとトリプレットタイプとを融合させて設計した、まったく新しい変形ガウスタイプに属するレンズと公式に発表していました(アサヒカメラ1961年4月号「ニューフェース診断室」初出、『アサヒカメラ ニューフェース診断室 キヤノンの軌跡』 p.35)。この、ガウスタイプの前群にトリプレットの後ろ2枚を折衷したとするクセノタータイプの構成解釈は、しかし、これ以降、今日に至るまで全く顧みられることがありません。


さて、キヤノンの伊藤宏も、富田良次のシムラーに感銘と刺激を受けた設計者の一人です。伊藤はシムラーの設計を見て、この4群7枚構成からレンズを1枚減らせないかと考えました。そして設計を進めて、ついにガウスタイプのコマ・フレアの発生原因を突き止めるに至りました。ダブルガウス4群6枚の第3群、4枚目のレンズの被写体に向けた凹面の曲率が高次のコマ収差、コマ・フレアの発生に関わっているという発見です。その発見を理論化して設計したのが、1950年11月7日に出願した特願昭25-14340・特公昭28-6685、日本国特許第205109号(米国特許 No.2681594)、1951年11月発売のキヤノン初のオリジナル設計のレンズ「Serenar 50mm F1.8」です。見かけはシンプルなガウスタイプ4群6枚のセレナーの設計について、キヤノンの鈴川溥がアサヒカメラ1954年3月号の記事、「対談・国産レンズを語る(その3)」で平易に解説しています。
結局、コマの収差は、4番目のレンズの最初の面の曲率が強過ぎるのが原因だということが分かりまして、その曲率をゆるくしたわけです。そうしますと、その面は球面収差を担当してる面なので、今度は球面収差が補正不足になってきます。そこでこんどは2番目と3番目のレンズの屈折率を今までと逆にして、しかもその差を非常に大きくしたわけですね。そうすることによって、張り合わせ面に凹の作用を与えて、そこで球面収差の補正を担当させた。そうすると、こんどは非点収差が残ってくるわけです。これを取るために4番目と5番目の屈折率の差を前より大きくしまして、そこで非点収差も取ってしまいます。そうしてコマ収差によるフレアを取ったんですね。(中略)
ガラスの屈折率の配置は変えております。見たところはいかにもビオター型なんですが、内部の屈折率配置、それから収差の分担状態は、ビオター型のように絞りに対して対称型でなくなっているわけです。
『アサヒカメラ1993年12月増刊 郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編』 p.215
アサヒカメラ1954年3月号再録
第2群をシムラー同様の3枚接合としている1952年発売の Serenar 85mm F1.5 Ⅰも、この理論展開を応用して設計されたレンズです。

この当時、東大の小穴純教授の研究室で、4群6枚のセレナー50mm F1.8と、6群7枚のズミクロン5cm F2のフレア(ハロ)の測定が行われました。その結果、セレナーの開放時F1.8のフレアはズミクロン開放時F2より多いものの、F2から最小絞りまで、フレアの少なさでセレナーがズミクロンを上回るという結果が出ました。そしてこのデータの隅には「このハロの多さがズミクロンが嫌われる理由」と朱書きされていると、これも小倉磐夫 『カメラと戦争』 に記されています(朝日文庫版 p.208~211)。


ガウスタイプのコマ・フレアとの苦闘は、3枚接合のゾナー前群導入が契機となって原因の解明へと繋がり、バックフォーカスの短いレンジファインダー機においては、ここに一応の決着を見ました。伊藤宏には、コマ収差除去の功績を讃えて、1980年(昭和55年)の春の叙勲で紫綬褒章が授与されました。ガウスタイプはこの後、今度は一眼レフの長いバックフォーカスと戦うことになります。1957年の Takumar 58mm F2 は、その緒戦に、富田良次のシムラーの発想を出発点に、それを当時注目されていたクセノタータイプに応用した設計で臨んだのだろうと想像します。

(文中敬称略)




MAX FACTORY 1/7scale “みくずきん” (Mikuzukin)
Asahi Optical Co. Ltd. Takumar 58mm F2, F2
OLYMPUS OM-D E-M5 MarkⅡ (ISO 200, A mode)



Takumar 58mm F2, F2.8


Takumar 58mm F2, F4


Takumar 58mm F2, F5.6


Takumar 58mm F2, F8

至近距離での撮影も理由だとは思いますが、開放時の画質は甘いのでライブビューではピント合わせに苦労します。開放ではコントラストも低いのでフォーカスピーキングもあまり役に立ちません。色収差やコマ収差は開放でもF2.8でも目立ちますが、マイクロフォーサーズではF4に絞ると目立たなくなります。「ニューフェース診断室」が初校で開放時の画質を酷評していたというのがよく理解できます。コントラストはF5.6が最も高いようです。ピント移動は、実絞りで合わせてから絞りを開放に開けると、かなり大きな移動が見えます。

ゾナーとガウスを折衷した結果、両者の長所が相殺されて、両者の短所ばかりが大きく表れているのは大変に皮肉です。ガウスタイプなら良好に補正されるはずの色収差が絞りを開けていくと非常に目ざわりになるのは、おそらくゾナー譲りで、もうひとつ、近接時の画質劣化の大きさもゾナー譲りと思われます。その一方、ゾナーなら良好に補正されるはずのコマ収差は非常に大きく、コマ自体は画像中心から中間画角ではF4でほぼ解消するものの、コマフレアは残り続けるようで、絞り込んでも画像には“ざらつき感”が残ります。歪曲収差は、ゾナーであれば前群で生じた糸巻き収差が後群のパワーの弱さから残ることが多いのですが、ニューフェース診断室のデータによると非常に大きなタル型です。タル型の歪曲はガウスタイプでコマ収差を補正する場合の常套手段ですが、かなり大きなタル型に振っていながら、それでもなおコマ収差が目立ちます。絞り開放時の画像の甘さはコントラストを云々する以前のもの、要するに解像力不足によると考えられます。このレンズの設計を一言で評すなら、「失敗作」と言うほかないと思います。



Takumar 58mm F2 の構成図を見て、その第2群の3枚接合だけに目を奪われて脊髄反射的に「ゾナーである」と主張するコレクターなどが、雌山亭アサヒペンタックスSシリーズ博物館ブリコラージュ工房NOCTOFrühe lichtstarke Objektive산들산들kuuanPentax Forum のレビューPentaxForums のスレッドManual Focus Lenses のスレッドClubSNAP のフォーラム Digital Photography Review のスレッドPentax User のレポートSample-Image.comなど、国内外に大勢いらっしゃるのですが、しかしゾナーは、トリプレットからエルノスターを経て派生したレンズ構成で、またテッサーを拡張したとする設計(注)もありますが、つまりはゾナーの要件は3枚接合の有無ではなく、パワー配置がトリプレットから引き継がれた非対称な構成になっていることです。Takumar 58mm F2 はパワー配置が対称なのでゾナータイプには当たりません。ゾナーの前群は前述の通り、ガウスの前群と本質的な差がない以上、ゾナーかガウスかの判別は後群を見る必要があります。そして Takumar 58mm F2 の後群はゾナーとは異なり、まさしく変形ガウスタイプ、クセノターの後群なのです。これをゾナーと言いつのる人々は、3枚接合だけを見て、後群を真面目に見ていないのです。
ドイツ特許 DE2419140米国特許 No.3994576、エルハルト・グラッツェル(Erhard Glatzel),ハインツ・ツァヤダツ(ハインツ・ザジャダス Heinz Zajadatz)、1974年4月20日)

ゾナーの構成について、オールドレンズのコレクターやマニアの間では、一例を挙げると、雌山亭文章
「ゾナー」というのは、この「エルノスター」の2枚目と3枚目の空間をレンズで埋めた3枚貼り合わせの構成で、(中略)「エルノスター」の4枚目凸を貼り合せ「ダブレット」にした望遠レンズも、ツァイスは「ゾナー」と称している
のような俗説が信じられているらしく、アサヒペンタックスSシリーズ博物館が言う、実際、現代の基準では、ゾナーに属すると思われます。とする見方の「現代の基準」とやらも、2群めが3枚貼り合わせの、正真正銘のゾナータイプレンズです。という言葉から、同じものと見られます。この説、即ち「エルノスターの2枚目と3枚目の間をレンズで埋めた3枚貼り合わせ」が正しいなら、ゾナーとされるレンズ構成の3枚接合から真ん中のガラスを抜くとエルノスター(あるいはチャールズ・C・マイナーの構成)になるはずです。なるほど、ベルテレのゾナー5cm F2、同F1.5の構成図で試してみるとそんな感じになりますが、Takumar 58mm F2 の第2群から真ん中のガラスを抜いてみたところで、どこからどう見ても変形クセノターで、どう頑張ってもエルノスターには見えません。つまり、この「現代の基準」とやらを以てしても、Takumar 58mm F2 をゾナーと見なすことはできないと言えます。

さらに言えば、この「現代の基準」とやらでは、1970年代から現代に至る、ツァイス以外のゾナータイプのレンズや3枚接合がないゾナー(例えば、Nikon ピカイチ L35AFMakro-Sonnar T* 100mm F2.8Sonnar T* FE 55mm F1.8 ZASonnar T* FE 35mm F2.8 ZAなど)が、どうしてゾナーなのか、説明できません。そもそもベルテレはゾナー5cm F2の設計時に、明るさをF2.8に抑えた3枚接合のない3群5枚構成のゾナーも検討しているのです(米国特許 No.1998704 ExampleⅡ / Fig.2)。従って、“3枚接合がありさえすれば他の群は全く無関係に十把一絡げの問答無用であれもこれもみんなゾナー”などとやらかしかねない「現代の基準」とやら(実際にやらかしてしまっているわけですが)は、ゾナーの定義とは見なし得ないと考えざるを得ません。

このレンズはガウス型でありますので、ゾナー型と比べて色収差が少ないのが特徴で、カラー撮影を考慮し設計いたしました。という旭光学の発表文は、本エントリーの始めで紹介したエピソードからお判り頂けるかと思いますが、松本三郎社長以下、当時の旭光学の全社員の血と汗と涙が滴り自負が漲っている文言でもあります。徒やおろそかにしていいものではありません。ところが、これについてアサヒペンタックスSシリーズ博物館人間、珍しい物を欲しがるのです、ですから営業サイドでは、当時では珍しい一眼レフ用ダブルガウスの高性能レンズとして発表した、という主張は資料が存在しなくても、十分推論としての意味はある、要約すれば「当時、旭光学はレンズ構成を偽って発表し、顧客を欺していた」とする主張を、根拠もなく一般論のみから気軽に主張し始めており、これには大変に驚愕しました。旭光学を貶めて濡れ衣を着せてまでゾナーにこだわろうとする、その動機はいったい何でしょうか。

アサヒペンタックスSシリーズ博物館は、同ブログ記事の2018年6月2日 午後 8:27 のコメントで、根拠の文献や資料は残念ながら存在しません。と、「現代の基準」なるものが無根拠な空想の産物であることを認め、自分の主観を自分のブログで述べるのは御法度ですか?、つまり「作り話を書いて何が悪い」と開き直った上で、2018年6月2日 午後 10:47 には、“根拠を欠いた推論を書いていることは、検索で来た読者には到達できないところに書いてあるのでアリバイは成立している”と読み取れるコメントを上げています。このアサヒペンタックスSシリーズ博物館の運営方針は、デマサイトによく見られる手法です。そしてその後もなお、当時の社内事情、一連の製品の歴史、そのレンズのルーツを考えて評価する方法も必要などと述べて事実であるかのように装いつつ、根拠の存在しない作り話ばかり並べ立てて読者を欺いています。そこでは奇妙なことに、所有されているはずの個体の最後面の形状(平面か凸面か)に全く言及されていません。それは言及できない事情がある、おそらくは既に売却済みでお手元にないのだろうと考えます。状況証拠のみによる推測ですが、オークションで売却したのではないか、その際に「一眼レフで唯一のゾナーの標準レンズ」などと煽って価格をつり上げていたのではないか、それはその個体のみではなく、いわゆる“競取り行為”で同様の入札価格つり上げを繰り返してこられていたのではないかと想像します。その結果、過去の落札者が返金を要求したり刑事告発に及んだりすることを恐れて、嘘の上に嘘を塗り重ね続けてゾナーと強弁し続けなければならない状況に追い込まれているのではないか。そう考えると、なぜアサヒペンタックスSシリーズ博物館がゾナー説に固執し続けるのか、腑に落ちます。

また、別の方からリコー・ペンタックスのお客様相談窓口がゾナーと回答したとするコメントを頂きましたが、問い合わせが行われたこと並びに回答が実在することを示す物証が全くなく、もしその旨の回答が本当にあったとしても、現役製品当時の旭光学が公式見解としてゾナー型ではないと明言した事実は厳然としていて、覆すことができません。さらに付け加えると、2000年に発刊された『アサヒカメラ ニューフェース診断室 ペンタックスの軌跡』の巻末にある「アサヒフレックス・ペンタックス全レンズデータ一覧」を見ると、例えばM42マウントの Takumar 50mm F3.5 について、マクロ用か?とする疑問形の注釈があり、この書籍が編集された2000年当時には既に、アサヒペンタックスAP時代のレンズについて旭光学工業社内にもきちんとした資料が残っていなかったことが分かります。

そもそも、リコーイメージング株式会社(2013年7月まで「ペンタックスリコーイメージング株式会社」)は、ペンタックス株式会社(2002年9月まで「旭光学工業株式会社」)の存続企業ではありません。ペンタックス株式会社は2007年10月1日にHOYA株式会社に吸収合併され、2011年にHOYAはペンタックス株式会社から引き継いだ事業のうち、デジタルカメラ・交換レンズ・双眼鏡などを製造・販売するイメージング・システム事業のみ分離して子会社の「ペンタックスイメージング株式会社」を設立、その株式をリコーが取得してリコーの子会社となり、社名を「ペンタックスリコーイメージング株式会社」に、そして2013年8月1日に社名を「リコーイメージング株式会社」へ変更して現在に至ります。「PENTAX」の商標権(商標登録第510007号)は、ペンタックス株式会社の存続企業であるHOYA株式会社が今も有しており、リコーイメージング株式会社はそのライセンシーを受けています。また、かつて旭光学工業はクラシックカメラの膨大なコレクションを持ち、「ペンタックスカメラ博物館」として公開していましたが2009年に閉館、それら収蔵品や歴史的資料は日本カメラ博物館(JCII Camera Museum)に移譲されました。ペンタックス株式会社(旭光学工業)が持っていた歴史的資料は、リコーイメージング株式会社にはありません。

バックフォーカスの長さが必要な一眼レフでは各社とも標準レンズをゾナーでは作り得なかった。しかし一眼レフのパイオニアたる旭光学のみゾナーの標準レンズを送り出し得た。偉大なるかな旭光学 ! ”などというストーリーをでっち上げてロマンティシズムに耽溺したいお気持ちは、全く分からないではありませんが、神話の捏造は厳に慎むべきです。また、オークションなどで “一眼レフの標準レンズで唯一のゾナーです! ”などと煽れば、集客しやすく価格もつり上げやすいのでしょうけれど(eBayヤフオク!メルカリなど、正当な評価とは言えない高値が付く例が散見されるように思います)、詐欺的商法ではないかと疑われた場合、返せる言葉はあるでしょうか。




謝辞:
(パ)と青い鳥さま、ご紹介下さった上に過分のお言葉まで頂いて、本当にありがとうございます。
サンドさま、ご紹介と高い評価に加えて参考資料のご教示も頂き、ありがとうございます。
伊藤浩一@itokoichi2)さま、ご紹介ありがとうございます。
Kilroy Was Here@cutnipper)さま、ご紹介ありがとうございます。
Studio Manjiroさま、ご紹介ありがとうございます。しかし3枚貼り合わせの中間に位置するレンズを空気層に見立てればエルノスター型などという頭の悪い珍説は頂けません。あと、些事ながら、「黒板」の読みを「くろいた」とされたのには意表を突かれました(笑)



編集履歴:
2018年5月7日 公開。
2018年5月15日 Nikkor P·C 8.5cm F2 の設計について追記。
2018年5月20日 謝辞を追記。
2018年6月8日 最終段落に加筆。
2018年6月9日 Xenon 5cm F1.5 の設計について加筆、出典資料を追記。
2018年6月10日 新種ガラスについて修正加筆。
2018年6月24日 5群6枚の Xenon 5cm F2 をトロニエの設計とする説の裏付けが取れないため修正補筆。
2018年6月27日 上記6月24日分での修正漏れを修正。アサヒカメラ1961年8月号の旭光学コメントを追記。
2018年7月1日 若干の加筆。
2018年7月23日 レンズ構成図等について加筆。
2018年9月23日 ガウスタイプのレンズ構成ほかについて加筆。
2018年9月30日・同10月21日 若干の加筆。
2018年12月9日 旭光学の広告ほかについて加筆。
2018年12月22日 So-netブログサービスの不具合に対応して、画像リンクを修正。
2019年1月20日 画質評を加筆。
2019年3月31日 クロード・シャノンについて追記。クセノタータイプについて加筆。
2019年4月1日・5月10・11日 クセノタータイプについて加筆・修正。
2019年8月5日 若干の加筆。
2020年1月12日 リコーイメージング株式会社の沿革について加筆。
2020年5月27日 謝辞と参考資料を追記。
2020年8月10日 “悪質性の高い虚偽情報掲載ページ”にブリコラージュ工房NOCTOを追加。
2020年9月4日 謝辞を追記。
2020年9月12日 ゾナーの構成について加筆。
2020年9月21・22・26・27日 Z3、Z4、イギリス、日本の計算機開発状況を加筆追記。
2021年3月14日 謝辞を追記。
2021年4月22日 岡崎文次について追記。



参考資料(順不同):

アサヒカメラ ニューフェース診断室 ペンタックスの軌跡(朝日新聞社・ISBN4-02-272140-5 C9472 ¥1800E・2000年12月1日発行)

アサヒカメラ ニューフェース診断室 ライカの20世紀(朝日新聞社・ISBN4-02-272132-4 C9472 ¥1800E・2000年7月1日発行)

アサヒカメラ ニューフェース診断室 キヤノンの軌跡(朝日新聞社・ISBN4-02-272139-1 C9472 ¥1800E・2000年10月1日発行)

アサヒカメラ 1993年12月増刊 [カメラの系譜]郷愁のアンティークカメラⅢ・レンズ編(朝日新聞社・雑誌01404-12・T1001404122403・1993年12月20日発行)

アサヒカメラ 2008年7月増大号(朝日新聞社・4910014030787 00876・2008年6月18日発売,2008年7月1日発行)

カメラと戦争 光学技術者たちの挑戦(小倉磐夫・朝日新聞社/朝日文庫・ISBN4-02-261309-2 C0120 ¥580E・2000年9月1日 第1刷)

朝日選書684 国産カメラ開発物語 カメラ大国を築いた技術者たち(小倉磐夫・朝日新聞社・ISBN4-02-259784-4 C0350 ¥1300E・2001年9月25日 第1刷)

新装版 現代のカメラとレンズ技術(小倉磐夫・写真工業出版社・ISBN4-87956-043-X C3072 P3000E・1995年10月17日 新装版第1刷)

科学写真便覧 上 新版(菊池真一,西村龍介,福島信之助,藤澤信 共編・丸善株式会社・1960年6月15日)

クラシックカメラ選書-2 写真レンズの基礎と発展(小倉敏布・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12012-6 C0072 P2000E・1995年8月31日 第1刷)

クラシックカメラ選書-11 写真レンズの歴史 A History of the Photographic Lens(ルドルフ·キングズレーク Rudolf Kingslake・雄倉保行 訳・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12021-5 C0072 ¥2000E・1999年2月28日 第1刷)

クラシックカメラ選書-17 [復刻]明るい暗箱(荒川龍彦・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12027-4 C0072 ¥1700E・2000年6月15日 第1刷)

クラシックカメラ選書-22 レンズテスト[第1集](中川治平,深堀和良・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12032-0 C0072 ¥1800E・2001年11月30日 第1刷)

クラシックカメラ選書-39 ミノルタかく戦えり(神尾健三・朝日ソノラマ・ISBN4-257-12049-5 C0072 ¥1900E・2006年12月30日 第1刷)

クラシックカメラ選書-41 トプコンカメラの歴史 カメラ設計者の全記録(白澤章成・朝日ソノラマ・ISBN978-4-257-12051-3 C0072 ¥1900E・2007年4月20日 第1刷)

めざすはライカ! ある技術者がたどる日本カメラの軌跡(神尾健三・草思社・ISBN4-7942-1256-9 C0034 ¥1800E・2003年11月7日 第1刷)

ライカ物語 Leica Story(中川一夫・朝日ソノラマ・ISBN4-257-03503-X C0072 ¥14000E・1997年9月17日 第1刷)

カメラジャーナル新書別巻 ライカポケットブック 日本版 第二版(デニス·レーニ Dennis Laney・田中長徳 反町繁 訳・カメラジャーナル編集部・株式会社アルファベータ・ISBN4-87198-522-9 C0072 ¥2500E・2001年3月31日 第1刷)

コンタックスのすべて Auf den Spuren der Contax 1932-1945,1945-1982(ハンス·ユルゲン·クッツ Hans-Jürgen Kuć・株式会社 カツミ堂写真機店・ISBN4-257-04008-4 C0072 P9000E・1993年12月25日 第1刷)

カメラマンのための写真レンズの科学(吉田正太郎・地人書館・ISBN978-4-8052-0561-7 C3053 ¥2000E・1997年6月20日 新装版初版第1刷,2014年6月10日 新装版初版第5刷)

光学の知識(山田幸五郎・東京電機大学出版局・ISBN4-501-60390-9 C3042 P3296E・1966年2月25日 第1版1刷,1996年11月20日 第1版19刷)

写真技術講座1 カメラ及びレンズ(林一男,久保島信・共立出版・1955年11月25日 初版1刷,1968年2月5日 初版15刷)

図解 カメラの歴史 ダゲールからデジカメの登場まで(神立尚紀・講談社・ブルーバックス B-1781・N.D.C.742 246p 18cm・ISBN978-4-06-257781-6 C0253 ¥900E・2012年8月20日 第1刷,2012年9月24日 第2刷)

新・ニコンの世界(浅香良太,長野真,田尻敦子,荻野行男,清水義範,川村光暁,日本光学工業株式会社カメラ営業部販売促進課,大日本印刷株式会社CDC事業部,手嶋毅,三枝俊文・日本光学工業株式会社 カメラ営業部・1979年9月1日 初版,1980年8月20日 第4版)

Nikon Nice Shot RELEASE(浅香良太,上村悦子,平カズオ,高橋周平,滝田恵,長野真,那和秀峻,内田泉・株式会社ニコン カメラ事業部・1987年4月1日 初版,1990年12月15日 第6版)

A COMPUTER PERSPECTIVE 計算機創造の軌跡(The office of Charles and Ray Eames・山本敦子 訳・和田英一 監訳・株式会社アスキー・ISBN4-7561-0175-5 C3055 P3900E・1994年3月1日 初版)

計算機屋かく戦えり(遠藤諭・株式会社アスキー・ISBN4-7561-0607-2 C3055 P2400E・1996年11月10日 初版,1997年2月20日 第1版第3刷)

新装版 計算機屋かく戦えり(遠藤諭・株式会社アスキー·メディアワークス・ISBN4-7561-4678-3 C3004 ¥2200E・2005年11月15日 初版,2012年9月14日 第1版第2刷)

コンピュータ 写真で見る歴史 THE COMPUTER An Illustrated History(クリスチャン·ワースター Christian Wurster・タッシェン·ジャパン株式会社 TASCHEN GmbH・ISBN4-88783-174-9 C0004 ¥3000E・2002年12月31日 第1刷)

日本コンピューター発達史(南澤宣郎・日本経済新聞社・3033-7310-5825・1978年9月23日 1版1刷,1985年4月15日 10刷)

コンピュータ史(小林功武 監修・小田徹 著・株式会社 オーム社・1983年1月30日 第1版第1刷,1986年2月10日 第1版第3刷)

誰がどうやってコンピュータを創ったのか?(星野力・共立出版株式会社・ISBN4-320-02742-6 C3041 ¥2136E・1995年6月14日 初版1刷,1997年9月20日 初版4刷)

パスト・フューチュラマ 二〇世紀モダーン・エイジの欲望とかたち(長澤均・フィルムアート社・ISBN4-8459-0009-2 C0036 ¥2400E・2000年9月10日 初版発行)

地球爆破作戦(脚本:ジェームズ・ブリッジス James Bridges・監督:ジョセフ・サージェント Joseph Sargent・製作:スタンリー・チェイス Stanley Chase・出演:エリック・ブレーデン Eric Braeden, スーザン・クラーク Susan Clark, ゴードン・ピンセント Gordon Pinsent, ウィリアム・シャラート William Schallert 他・©1970,2012 Universal Studios. All Rights Reserved.・NBCユニバーサル・エンターテイメント “ユニバーサル シネマ・コレクション”GNBF-2762)

世界最初の完全正像カメラ: ニコンカメラの小(古)ネタWeb Archive

ニッコール千夜一夜物語Web Archive
魔女たちの眼に映るもの 菊とカメラ Asahi Opt. Takumar 58mmF2 @F5.6保存版

会計士によるバリューアップ クラカメ趣味
Leica Wiki (English)

キヤノンカメラミュージアム

スイス特許 Nr.325165(Albrecht-Wilhelm Tronnier, Voigtländer AG.、優先日(ドイツ出願)1953年2月27日)

ksmt.com
黎明期のコンピュータ - コンピュータ博物館

HOYA株式会社 | 企業情報 | 沿革

ペンタックスリコーイメージング株式会社を発足 | リコーグループ 企業・IR | リコー

日本カメラ博物館 JCII Camera Museum:「甦る ペンタックスカメラ博物館展」


レンズマン・シリーズ6 三惑星連合軍 Triplanetary(E.E.スミス Edward Elmer Smith・小西宏 訳・東京創元社/創元推理文庫・ISBN4-488-60306-8 C0197 ¥480E・1968年11月8日 初版,1983年3月25日 24版)

「SF新世紀レンズマン」オリジナル・サウンドトラック 音楽編(井上鑑・F-LABEL・株式会社キャニオン·レコード・C28A0347・1984年7月5日 発売)



悪質性の高い虚偽情報掲載ページ(順不同):




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bpd1teikichi_satoh

(た)さんのめちゃめちゃ詳細なタクマー58mm F2の解説とても興味深く読みました。昔々爺もアサヒペンタックスを使っていましたから、タクマー58mm F2を使用したかもしれません。その後長く使用していたのが
ニコンFEで主にAiニッコール50mm F2を愛用していました。
by bpd1teikichi_satoh (2018-05-08 05:18) 

(た)

bpd1teikichi_satohさん、ありがとうございます♪

>めちゃめちゃ詳細なタクマー58mm F2の解説
初めは書くつもりなんかなかったんですが、アサヒペンタックスSシリーズ博物館さんに旭光学の公式ステートメントをお知らせしたら、検討されることなく一蹴されちゃってゾナー説にご執着で、まさかペンタックスの熱烈なファンがペンタックスの公式発表を切って捨てて顧みないとは、ずいぶん愛がないなあと感じたので、これはきちんと書かなきゃいけないなと思って書きました。

>アサヒペンタックスを使っていましたから、タクマー58mm F2を使用したかもしれません。
ペンタックスもお使いでしたか。このレンズもお使いだったかもしれないと思うと、感慨もまた一入です。

>ニコンFEで主にAiニッコール50mm F2を愛用していました。
FEもいいカメラですよね。まさにこれこそカメラっていう感じのする機械だと思います。50mm F2もニッコールオート時代からの息の長かった、いいレンズですよね。
僕はその後のもうひとつ後、Ai 50mm F1.8Sを長く使いました。
by (た) (2018-05-08 09:47) 

bpd1teikichi_satoh

(た)様、もう少し追記させて下さい。爺が未だ若かった頃、カメラや
交換レンズは貧乏学生にしてみれば非常に高価な物でした。中学2~3年生で使わせて貰うことが出来たのは、故父の大学の研究室のアサヒペンタックスとタクマー58mmF2だったのです。大学時代ニコンFE(その前にEL-2と言うモデルも買いました)を漸く手に入れて交換レンズは50mmF1.4は到底高価で買えず、50mmF2しか手が出ませんでした。然し天文クラブでその50mmF2でF2.8に絞り多くの星野写真を撮りました。
by bpd1teikichi_satoh (2018-05-08 13:04) 

(た)

bpd1teikichi_satohさん、追記ありがとうございます♪

カメラって高価でしたよね。70年代後半から80年代は少し落ち着いてましたが、90年代半ばからまた高価になって、今はもう青天井です。

>中学2~3年生で使わせて貰うことが出来たのは、故父の大学の研究室のアサヒペンタックスとタクマー58mmF2
思い出が詰まったカメラとレンズなんですね。
ペンタックスは学術用途向けに相当な数が出ていたらしいですね。

>ニコンFE(その前にEL-2と言うモデルも買いました)を漸く手に入れて
ニコンEL2、ありましたありました。ニコマートELの後継機でしたっけ。あれも、重いけれどいいカメラだったと思います。

>50mmF1.4は到底高価で買えず
1.4は高嶺の花で憧れでした。ほんと、手が出なかったです。星野写真には、お使いになっていたF2の方が向いていただろうと思います。

by (た) (2018-05-08 13:32) 

aoco23102

こんばんは、ペンタックスSシリーズ博物館です。調べ物をしていてここにたどりつきました。タクマー58mmの詳細な解説ですね、恐れ入りました。ただ、どうやらレンズ構成図が、2種類あるようです。早速うちのレンズを調べてみましたが(といっても、とりあえず1本)それは、(た)さんの図通りの後群トポゴン型でしたが、ボクがバイブルとして参考にしている、「ペンタックス スクリュウー マウント ガイド」には別の図が載っていて、それの3群目はメニスカスの凹ではありません。あと何本か持っているはずですので、調べてみます。
by aoco23102 (2018-06-02 18:59) 

(た)

aoco23102さん、ありがとうございます♪

>レンズ構成図が、2種類あるようです。
そうでしたか。それは初めて知りました。

>「ペンタックス スクリュウー マウント ガイド」
検索してみたら、「THE ULTIMATE ASAHI PENTAX Screw Mount Guide」という本が海外で出版されていたらしいことが分かりましたが、この本でしょうか。

>それの3群目はメニスカスの凹ではありません。
それは興味深いです。
外観や名称を変えないまま大きな設計変更を行う例は、1960年代まで国内では多くのメーカーにあるようですが、このレンズもその例に含まれるとすると、これもまた非常に興味深いです。
by (た) (2018-06-02 19:46) 

aoco23102

そうです、その本です。その本の構成図では、3群目の凹レンズのフイルム側がおそらく平面となっています(エルノスターの絞り前の凹レンズを逆さまにしたようなレンズ)。その後ろ(後玉)は中程度の曲面の凸レンズです。この本の誤植なのか、2タイプあるのかは、まだわかりません。

それと、ボクのブログに投稿していただきましたが、削除してしまったのですか?異論·反論大歓迎ですので、お気になさらずに。色んな意見があるから面白いのです。
by aoco23102 (2018-06-02 20:43) 

(た)

aoco23102さん、重ねてありがとうございます♪

>3群目の凹レンズのフイルム側がおそらく平面
>その後ろ(後玉)は中程度の曲面の凸レンズ
第3群は負、第4群は正の、ガウス後群であること自体は変わってないわけですね。
後群が接合でも単玉でもいいから正の1群のみ、あるいは2群であっても2群とも正であればゾナーになりますが、後群が負と正ですから、やはり変形ガウス以外の何ものでもないですね。

>誤植なのか、2タイプあるのか
スーパーキヤノマチックR50mm F1.8のように外見で全く区別ができないのに中身が別物化している例がありますし、旭光学もスーパータクマー50mm F1.4の8枚玉と7枚玉のように外見上の違いが非常に微妙なものがあるので、2タイプあるとしてもおかしくはないようには思います。

>削除してしまったのですか?
投稿してから、こちらに下さったコメントに2タイプある可能性を記されているのを見て、続報を待って確認する必要があると判断して、失礼とは思いましたが一旦削除させて頂きました。失礼のほど、お詫び申し上げます。
by (た) (2018-06-02 21:12) 

yossy

こんばんは^^ お世話になります。
バタバタしていて読むのが遅れました(汗)

当時のレンズの開発の苦労がとても伝わってきました!
コンピューターによる計算やコーティング技術もさる事ながら
レンズ構成にも多大な労力が注ぎ込まれていたのを感じます。
古いレンズを使っていて「なるほど!」と思わさせる事も多数…

しかし「Takumar 58mm F2」がこんな構成だったのは
驚きです!
技術の壁を越える事は大変だったと痛感致しました。
何故50mmではなくて、55mmや58mmだったのかも良く
分かりました^^;
でも開発への情熱を感じ時代でもありましたね♪

この度は大変勉強になりました! ありがとうございます^^

by yossy (2018-06-06 00:04) 

(た)

yossyさん、ありがとうございます♪

>レンズ構成にも多大な労力が注ぎ込まれていた
古い時代のレンズの構成図を見ると、3枚接合どころか4枚接合も全然珍しくなんかなくて、おまけに接合面の曲率が異様に強いものが少なくないんですよね。

>「Takumar 58mm F2」がこんな構成だったのは驚きです!
ガウスタイプの標準レンズにゾナー前群を導入する方法は、中川治平の解説によると、バックフォーカスが短いレンジファインダー機だったから通用した手法だそうです。一眼レフの標準レンズでこのタクマー以外にこれをやった例がないのは、おそらくは他社の設計者はそのことを分かっていたからだろうと思います。アサカメが5年後に「その後、優秀な設計者が入り、」とやっているのは、この点をやんわり皮肉っているように受け取れなくもないですね。

>何故50mmではなくて、55mmや58mmだったのか
一眼レフ初期には各社とも標準レンズを50mmにするだけで四苦八苦してますね。ニッコールですら1959年には前玉に凹レンズを追加する力任せの手法を採ってますし、その約10年後にはトロニエもUltron 50mm F1.8、いわゆる「凹みウルトロン」でその初期のニッコールと同じ手法を踏襲してたりします。こうやって見てみると、スーパーキヤノマチックR50mm F1.8がいかに先進的だったかが分かる気がします。

>でも開発への情熱を感じ時代でもありましたね♪
この時代の設計者の多くが、今はもう鬼籍に入られてしまっているので、古本を漁る以外にご苦労を察する方法がないんですが、今あるオールドレンズ本やオールドレンズのファンサイトでは、そういう手間をかけることなく、根拠のない妄想を断定文体で記して事実のように装うという傲岸不遜な手法が当たり前になってます。リスペクトの欠如は、本当に嘆かわしいことです。

>この度は大変勉強になりました! ありがとうございます^^
いえいえ、こちらこそ、お役に立てていたら嬉しいです(^^)
by (た) (2018-06-06 09:45) 

aoco23102

こんにちは、アサヒ ペンタックスSシリーズ博物館です。このレンズのボクの考えを記述しましたので、是非ごらんください、。館内の書庫「トーチウッド研究所」に展示してあります。
by aoco23102 (2018-06-10 13:21) 

(た)

aoco23102さん、お知らせありがとうございます。記事、拝見しました。
https://blogs.yahoo.co.jp/aoco23102/56319480.html

5cm F2のゾナーの「後群を分離して、凹レンズをガウスのように反転させ、その後ろの凸レンズを薄くして、バックフォーカスをかせいでいる」かどうかは資料が示されてない以上、事実と見なすことができません。現実のタクマーの構成では後群が負と正の2群で、小倉磐夫の言葉通りにガウスの後群ですから、万一、aoco23102さんのお見立て、“後群を分離する前はゾナーだったはず”が正しいとしても、全く無意味です。

なお、タクマー83mm F1.9もゾナーではありません。第3群の接合で5枚目と6枚目のパワー配置が逆転はしていますが、第3群全体では負のパワーを持っていますし、その後ろ第4群が正レンズですから、変形ガウスに間違いありません。

「2群目が3枚貼り合わせレンズ(ペンタックスSシリーズ現役当時の一眼レフ用のゾナーは大半が2枚貼り合わせ)を、自分では、特別に評価して「正真正銘のゾナー」と呼んでいる、という意図で記述」
意味不明です。
結局のところ要約すれば、「2群目が3枚接合なら問答無用でゾナーです。」とおっしゃっているも同然です。馬鹿馬鹿しくてお話になりません。
by (た) (2018-06-10 14:45) 

bpd1teikichi_satoh

(た)様、大変遅ればせながら、約60年前の爺の中三修学旅行時の写真
を爺のブログにアップしましたので写真のアサペンのレンズがタクマー58mmF2なのか判定して下さい。
https://nenrinnokai-2.blog.so-net.ne.jp/2018-06-27#favorite
by bpd1teikichi_satoh (2018-07-05 17:40) 

(た)

bpd1teikichi_satohさん、ありがとうございます♪
写真、拝見しました。
半自動絞りのチャージレバーが見えるので、タクマー58mm F2 ではなく、Auto-Takumar 55mm F2 だろうと思います。
https://isl-ktt.blog.so-net.ne.jp/2015-03-13-1
by (た) (2018-07-05 18:16) 

bpd1teikichi_satoh

(た)様、有難うございます!約60年前の昔の記憶が蘇って来るようで、
とても感動的です!
by bpd1teikichi_satoh (2018-07-05 19:25) 

(た)

微力ながら、bpd1teikichi_satohさんのお役に立てたようで、僕も嬉しいです(^^)

by (た) (2018-07-05 20:06) 

想

初めまして。
昔からこのレンズに興味があり、色々調べていてこちらに辿り着きました。
様々な文献等をお時間を掛けて丁寧にお調べになり、それらを転用・コピペして公表されている様ですが、まず、あなたがTakumar 58mm F2のレンズ構成図としてお示しになられている図はTakumar 58mm F2のものではありません。Takumar 58mm F2は製造終了までレンズ構成を変えたことがありません。どちらのサイトからこの構成図を転用されたのですか?コメント欄のaoco23102さんのブログで示されてる構成図が正しいものです。
最初から間違った情報から出発されているようなので、その後のあなた様の見解や主張は何か激しく勘違いされているように感じますし、あなた様の見解に沿う形の転用文をいくら集めたとしても正直意味がありません。
ゾナー型かガウス型かクセノター型かそれとも折衷型か・・・?
ゾナー型です。完全なゾナー型には一致しませんのでゾナー(変形)型です。この見解、ではなく判断は、私が以前、リコー・ペンタックスのお客様相談窓口に直接質問をし、当時の資料を調査・確認してもらった上で得たリコー・ペンタックスの正式回答です。レンズ構成図についてもその時に同時に確認していますので間違いありません。
アサヒカメラに当時の旭光学がガウス型とアナウンスしていますが、あなた様も昔のニューフェイス診断室を沢山お読みになられていてよくお分かりだと思いますが、旭光学をはじめとした当時のカメラメーカーのほとんどが、工作技術や知識水準が現代よりも相当低く、診断中にカメラが故障したりねじが緩んだり、レンズの絞りが動かなくなったり、明らかな偏心が認められる・・・といった事例が頻発して取り上げられています。そうした状況・時代背景下では、「このレンズはガウス型でありますので、ゾナー型と比べて色収差が少ないのが特徴で、カラー撮影を考慮し設計いたしました」というアナウンスも、当時の旭光学の思い込み、知識・認識不足であったと考えた方がよいのかもしれません。
ただ、リコー・ペンタックスの回答は現代基準で判断してもらってますので、「当時はそういう判断」だったかもしれない事は否めません。ネットで簡単に他のレンズなどと比較できない状況は、旭光学もドクターも他の研究者や専門家も同じですので。
ですが、あなた様は現代に生きる方です。現代の判断においても「ゾナー型ではない」と、国内外のブロガーさんやHP開設者を名指してまで批判するあなたの主張・見解・姿勢は、正直目も当てられないほど的外れで愚かしく、そして他人の尊厳を傷つけるものであります。部外者の私でさえもあなたの文章を読んで大変不愉快になりました。
名指しして批判した方々についてはその文章部分は削除しないで、加筆で謝罪文を掲載するか、直接サイトに訪問して謝罪すべきだと思いますが。

by 想 (2018-07-06 16:56) 

(た)

想さん、ありがとうございます。
この構成図はニューフェース診断室に掲載されたもので、通産省工業技術院機械試験所の分解計測による作図です。

>当時の旭光学の思い込み、知識・認識不足であったと考えた方がよいのかもしれません。
>かもしれません。
>かもしれません。
>かもしれません。
丸善の『科学写真便覧 上 新版』の記述は、お説では説明できていません。

リコー・ペンタックスのお客様相談窓口で担当された方が光学設計にお詳しい方なのか、そうではない営業担当の方だったのかという点も気になりますし、お尋ねになった想さんがどんな言葉を使われたかも気になります。このコメントの狂信的ともいえる感情的な激烈さから察して、ご自分の意見を強要して問い詰めるような態度を取られた可能性を考慮しないわけには行きません。それに押し切られての回答だった可能性を疑わざるを得ません。

現在、国内各社とも自社ホームページ上に過去製品の情報を記載している例は珍しくありませんが、少なくない企業で内容に間違いが散見されます。現状、過去情報についてはメーカー公式情報ですら鵜呑みにできない状況にあります。

コメントを下さったことは大変ありがたいのですが、投稿される前に少し時間をおいて落ち着かれた方がよろしかったかと思います。感情的なコメントは「正直目も当てられないほど的外れで愚かしく、そして他人の尊厳を傷つけるものであります。」
by (た) (2018-07-06 18:39) 

想

感情的になってコメントしたわけではありませんが、もし誤解があってご気分を損ねられたのでしたら当方の本意ではないのでその点についてはお詫びいたします。

過去の資料と製造元以外の資料ばかりに頼っておられるようですが、(た)さんはこれまで何故製造元に直接確認されなかったのですか?倒産・消滅した会社ではありません。過去製造販売したカメラやレンズ類の設計図についても破棄・散逸はしていないと思います。

私はレンズの構成については特段のこだわりなどはありませんし、(た)さんのような深い知識もありません。なのでメーカーにはこのレンズについての詳細を教えてください、といった内容を文書で問い合わせ、数週間後に文書で回答を受け取った、という経緯があったのみです。つまり「質問→回答」だけで、「回答内容について再度質問」といった事や「ご自分の意見を強要して問い詰めるような態度」といったようなやりとりは一切無い、ということです。

>お客様相談窓口で担当された方が光学設計にお詳しい方なのか、そうではない営業担当の方だったのかという点も気になります・・・

上記のように電話で問い合わせして即座に回答を得たわけではないです。お客様相談窓口の担当者が60年前のレンズの詳細を電話口でスラスラ答えられたら実に素晴らしいことですが、まずそれはあり得ないので、詳細を知る担当部に調査を依頼して、結果が判明次第回答していただいたものと思います。

そうして得た回答が「疑わしい」とお思いになるのでしたらそれはそれで結構です。私は回答結果に上も下もないと思っておりますので。








by 想 (2018-07-06 19:33) 

想

それと・・・
>この構成図はニューフェース診断室に掲載されたもので、通産省工業技術院機械試験所の分解計測による作図です。

当時の取扱説明書に記載されているレンズ構成図とは違いますよ。
旭光学は取扱説明書に載せるデータすら間違っていた!ということでしょうか?(笑)
by 想 (2018-07-06 21:27) 

(た)

>過去製造販売したカメラやレンズ類の設計図についても破棄・散逸はしていないと思います。
そうだといいんですが。

>メーカーにはこのレンズについての詳細を教えてください、といった内容を文書で問い合わせ、数週間後に文書で回答を受け取った、という経緯があった
なるほど、そうでしたか。
その回答文書を公表されるおつもりはないのですか?
特許文献などあると、非常にありがたいんですが。

>当時の取扱説明書に記載されているレンズ構成図とは違いますよ。
それは興味深いですね。
しかしながら、パワー配置がガウスの後群であることには変わりはありませんから、変形クセノターとは言えなくなりますが、変形ガウスとする見方に特に問題はないですね。
by (た) (2018-07-06 22:02) 

想


>その回答文書を公表されるおつもりはないのですか?
特許文献などあると、非常にありがたいんですが。

個人的に問い合わせをしたものなので、文書をあなたに公表する義理も権利もありません。

一度リコー・ペンタックスに問い合わせしてご自身で詳細を確認してみては如何ですか?それが一番早くて確実にはっきりすると思いますが。ゾナー(変形)という回答でしたら、「その判断は間違っている、このブログを見て勉強せい!」と一喝されればよろしいのでは?


by 想 (2018-07-06 22:35) 

(た)

>文書をあなたに公表する義理も権利もありません。
私にではなく、一般に向けてのつもりでしたが、言葉足らずで伝わらなかったようですね。
この件はこれで終わります。
by (た) (2018-07-06 22:51) 

(た)

想さんとのコメントのやり取りを終えましたので、一連のコメントについて総括しておきます。

想さんは、リコー・ペンタックスの正式回答なるものをもってゾナーであると主張するコメントを寄せられました。7月6日午後4時56分のコメントはかなり感情的な文章で、お気持ちの高ぶり方が手に取るように分かる文章です。

その中で、

「私が以前、リコー・ペンタックスのお客様相談窓口に直接質問をし、当時の資料を調査・確認してもらった上で得たリコー・ペンタックスの正式回答です。」

と力強く主張されていたのですが、その後のコメントでは

「詳細を知る担当部に調査を依頼して、結果が判明次第回答していただいたものと思います。」
「過去製造販売したカメラやレンズ類の設計図についても破棄・散逸はしていないと思います。」

「思います。」にトーンダウンしました。「当時の資料を調査・確認してもらった上で得た」かどうか、本当は不明だというわけです。“問うに落ちず語るに落ちる”という諺がありますが、それを地で行かれました。しかも、いろいろ不審な点があります。

「詳細を知る担当部」の正式な部署名を示されないのはなぜでしょう? 調査を行った部署名は正式回答に記載されていなかったのでしょうか?
想さんが「ゾナー(変形)型」になる光学設計上の根拠を一向に示そうとされないのはなぜでしょう? 理論的な説明や根拠となる社内資料は正式回答に記載されていなかったのでしょうか?

そして、

「文書をあなたに公表する義理も権利もありません。」

文書内容を提示しないまま「謝罪すべき」とは、ずいぶん居丈高だなと思いました。

内容が主張通りか確認できないものを持ち出されても議論のしようがありません。文書が示されないのは、示せない理由があるのだろうと考えます。ありがちな理由は、回答文書が実在しない、または、リコー・ペンタックスに問い合わせる行動自体が実際には行われなかった、といったあたりでしょうか。仮に回答文書が実在するとしても、調査過程が示されていないこと、裏付けとなるはずの社内資料への言及がないことが、「思います。」の語から容易に推し量れます。

こうして、不躾な謝罪要求から一転、回答文書そのものの実在性・信頼性に疑問符が付くという大どんでん返しを食らいました。愉快なものではありませんが、これはこれで一種のセンス・オブ・ワンダーではあります。ここまでの想さんの一連のコメントに、李進煕が唱えた好太王碑文改竄説の顛末を連想したことも、蛇足ながら付け加えます。

正直なところ、半世紀を超える遙か昔の製品について現在のリコーイメージングの、それも現行製品を扱う営業窓口に問い合わせる必要性を感じていません。シンプルなレンズ構成であり、かつ、複数の光学研究の高名な専門家による解説がきちんと残っているので、それで十分と考えています。社内資料を精査したものか、それともお手軽にウェブ検索でまとめたものか、その判別が困難な回答をもらっても扱いに困るだけです。

ニューフェース診断室での旭光学のアナウンスを

「当時の旭光学の思い込み、知識・認識不足であったと考えた方がよいのかもしれません。」

とする見方を採ると、そこに当時の日本の光学界の重鎮であり光学各社を指導する立場にもあった小穴教授が突っ込まなかったのは腑に落ちませんし、日本のカメラ・レンズの信用を向上しようと力を入れていた当時の通産省がスルーするのも奇妙です。解像力17本/mmが議論されたというエピソードがあるにもかかわらず、レンズ構成の解釈については意見の食い違いがあったなどという話は見つかりません。複数のペンタックスマニアがそろって、なぜこうも短絡に気軽に旭光学を貶めたがるのか、とても不思議です。

「リコー・ペンタックスの回答は現代基準で判断してもらってますので」

「当時の旭光学の思い込み、知識・認識不足」を採ると「現代基準」が存在しないことを示しますし、「現代基準で判断してもらってます」を採ると「当時の旭光学の思い込み、知識・認識不足」は否定されることになり、想さんの認識には矛盾が生じていると言えます。「現代基準」とおっしゃる、そのどなたもが、その基準とやらの内容あるいはポインタを示そうとされないのは一体なぜなんでしょうか。「現代基準」なるものは果たして存在するのでしょうか。

アサヒペンタックスSシリーズ博物館が「現代の基準」などと称する空想の産物を振り回していなければ、このブログエントリーは書きませんでした。こんな長い文章を書くのは、思われているであろう以上に面倒くさいんです。

「ネットで簡単に他のレンズなどと比較できない状況は、旭光学もドクターも他の研究者や専門家も同じですので。」

ネット利用の始まりをいつに置くか、World Wide Webが利用可能になった1991年とするか、イリノイ大学NCSAでウェブブラウザ「Mosaic」が開発された1993年とするか、インターネット接続が完全商用化された1995年とするか、あるいは ARPANET上で最初のメッセージが送られた1969年とするか、なかなか難しいところですが、ともかく、「ネットで簡単に他のレンズなどと比較できない状況は、研究者や専門家も同じ」などと言い出すのは、それ以前のレンズについて書かれた文献は雑誌や書籍はもちろん、光学学会誌も論文も特許も、みんなことごとくデタラメだと言うに等しいと理解されているんでしょうか。過去を舐めないで頂きたいものです。

「あなた様の見解に沿う形の転用文をいくら集めたとしても正直意味がありません。」

想さんのこのコメントを改めて読み返して、想さんは印象操作を目的とされていたのではないかという疑惑を抱いています。

ガウスとする見方を否定できる根拠は、目を通すことのできた書籍の中には見つけられませんでした。このレンズをゾナーとされている方々のウェブページは検索で調べて読ませて頂いた限り、どなたも第2群が3枚接合であること以外の根拠を示し得ていませんでした。

今さらながらに申しますと、このレンズの構成図を初めて見た際には私もゾナーではないかと思いました。構成図上の3枚接合は見た目がとても派手です。しかし当の旭光学が真っ向から否定していたことに衝撃を受けて調べ始めて、後群が負レンズ1群と正レンズ1群のガウス後群であることをきちんと認識しなければいけないと痛感しました。この認識を確かにしたのは本文中で言及した伊藤宏の米国特許 No.2836103、「High Aperture Terephotographic Objective of the GAUSS TYPE」です。

ウェブ上では、“後群は初めは接合で設計されたはずだが、バックフォーカスを確保するために分離したに違いない。設計当初は接合だったに違いないからゾナーだ”といった内容の根拠がない主張も見かけましたが、本来それは次のように表現されるべきものです。
“ゾナータイプではバックフォーカスが確保できないので、ガウスタイプで設計した。”

想さんのコメントは論旨が粗雑で、しかも最初から回答文書の実在性自体を示す意志が全くなかったと判断できるため、荒らし行為とも見なし得ます。そこで7月7日未明、このエントリーのコメント欄を、荒らし行為を防ぐ目的で承認制に移行しました。

7月7日午後3時40分に想さんのコメント投稿がありましたが、丁寧な言葉遣いながら言いがかり同然でしたので不認可とさせて頂きました。その不認可としたコメントは、このレンズには全く関係ないことばかり書き立てる、中身のないものでした。なお、不認可としたコメントで想さんは参考資料の引用を問題視されていましたが、著作権法第32条が認める引用の範囲から逸脱しないよう、また、引用時に不当な改変を加えない(著作者人格権を侵害しない)よう注意しているつもりです。著作権法第2条第1項によって測定データには著作権が及ばないことも合わせて記しておきます。
by (た) (2018-07-08 06:19) 

(た)

しかし、改めて考えてみて、この「想さん」はどちらにお住まいの方なのか、ちょっと気になります。想さんは「引用」という言葉をご存じなくて、掲載を拒否させて頂いた7月7日午後3時40分のコメントでは「転用文」などという奇天烈な用語を発明されていたんですよね。同じコメントでは仮説と結論の関係も理解されてませんでしたし、想さんは、どうも日本で教育を受けた方ではないような印象があるんですよね。
by (た) (2019-01-20 19:07) 

ととと

レンズタイプにこだわること自体がナンセンスです。
レンズタイプを分割する境界が曖昧だからです。

それゆえ、指摘されているサイトや書籍のタイプ分類も、たしかにイマイチではありましょうが、
一方で、明確に間違っているとも言い切れないものもあります。

むしろ、指摘すべき点は、
「本サイト(本書籍)においては、便宜上これこれこういう観点に基づいて、レンズタイプを分類します。」
という明確な宣言がない点でしょう。
残念ながらこの指摘はこのサイトにも当てはまってしまいます。


Sonnarタイプもガウスタイプも、厳密な定義は存在しません。
例えばZeissのOtus4種の光学系にはいくらかの類似性がありますが、
このうち28と55はDistagon、85がPlanar、100がSonnarです。どうやって分類しているのかよくわかりません。
(DistagonとPlanarの境界は前群のパワーの正負のように見えますが、断定はできません。)
特に、85と100においては後群 (フォーカス群?) のパワー構成がまるまる同じですがタイプは別とされています。
しかしこれは、ガウスとゾナーの前群は本質的な差がない。(=後群に違いがある)とする中川さんの見解とは異なります
(中川さんの言うガウスとZeissの言うPlanarがイコールかという点と、使用硝材の点には議論の余地がありますが)。

レンズタイプの分類なんていいかげんなものです。
タイプ名はレンズに付けられる銘に影響を受けていますが、これはとてもいいかげんです。
例えば、1922Elnostar→1924Elnostar→Sonnar F2→Sonnar F1.5
の流れのなかで、1922Elnostar→1924Elnostar、Sonnar F2 → Sonnar F1.5で銘が変わらなかったのに、
Elnostar→Sonnar F2で銘が変わりました。
Elnostar銘が使われなくなった最大の理由は光学的な理由というより単純にErneman社がなくなったからしょう。


以上のような点から、レンズタイプの分類に拘泥しても仕方ないのではないでしょうか。そこには限りなく広いグレーゾーンが広がっているだけですので。
ズームレンズは可動する群の数や各群のパワーによって明確にタイプ分類されますが、
単焦点においてはレンズタイプの境界が曖昧で、専門家でも共通見解はありません。
辻さんの「レンズ設計のすべて」においても、章分けこそレンズタイプごとですが、
各レンズの断面図のタイトルはやけに細かくなっています。
中川さんの「レンズ設計工学」においてはレンズタイプごとの章分けすらしておらず、標準・広角・望遠と画角で分けています。
これも、個々の光学系すべての明確なタイプ分類に光学設計者たちの共通見解がないことを示しているように思います。



また、ガウスタイプにおいては、最初期のガウス対物から対称ダブルガウス、非対称ダブルガウス、変形ダブルガウス、と
派生・変形していくなかで、ずっと「ガウス」というワードが残ってしまったことが混乱を招いていると考えます。

もともとのガウス対物型は薄肉でアクロマートを達成する解です (その意味ではフラウンホーファー対物型ダブレットの兄弟です)。
しかし、ルドルフのPlanarの段階で既にこの構想からは大きく外れています。
例えば、色収差の補正法が正負のパワーバランスからBuried Surfaceになっています。
このように、どういうわけかずっと「ガウス」というワードが引きずられたため、
伊東俊太郎の言う「連続と断絶」のようなものが正確に評価されていないように思います。

辻さんの後群メニスカスレンズの厚みによる略ガウス/Xenotarの分類についても、
ガウス対物とPlanar(の片割れ)の収差の違いを重視している見方と解釈できます。
ガウス対物は1面と4面で大きな逆符号収差が生じるため、1面と4面の間隔に対し敏感です。
このため、ルドルフのPlanarのようにガラスの肉厚を増やすと当初の構想通りには収差を制御できなくなりがちです。
(メニスの肉厚によって後群の後ろ3面へ入射する光線高が大きく変わってくることも根拠かもしれません) 。
歴史的な経緯よりも収差制御という点に重きをおけば辻さんの分類も納得できます。
こちらでのXenotarの分類についての議論は、
「ラクダとロバの子供がラバで、ラバはラクダとは区別すべき。」という発言に対して
「それにこだわるのはおかしいです。ラクダもロバもラバも哺乳類です。」
と述べるような議論に近いように感じます。

by ととと (2020-03-08 13:32) 

(た)

とととさん、詳細な論考を下さってありがとうございます。

「明確な宣言がない」とのご指摘、まさにその通りで耳に痛いところです。

確かにおっしゃるとおり、レンズ設計上ではレンズタイプにこだわるのはナンセンスで、古い時代の実際の製品でもオートテレロッコールPG 135mm F2.8のような例がありますし、ペンタックス110 24mm F2.8も異論を述べる余地があろうかと思います。ガウスタイプをトリプレットになぞらえて解説している書籍も古くからありますし。

ただ、ここで言っておきたいのは、「レンズタイプの分類がナンセンス」というその1点をもって、「タクマー58mm F2は一眼レフで唯一のゾナーである」とする主張を正当化できるのかということです。レンズタイプ分類がナンセンスであるなら、「ゾナーと見る余地がある」と主張することはできますが、「ガウスではない」とするなら行きすぎですし、何より、オークションサイトなどでの「タクマー58mm F2は一眼レフで唯一のゾナーである」とする売り文句自体がレンズタイプにこだわった煽り文句です。

メーカーが公式に「ゾナーではない」と明言した事実を伏せたまま「タクマー58mm F2は一眼レフで唯一のゾナーである」とレンズ構成分類を強調して高値を煽る姿勢は、レンズタイプにこだわるのはナンセンスであるとする理由を以て、倫理的・商道徳的に容認されるべきでしょうか。
by (た) (2020-03-08 15:35) 

(た)

>歴史的な経緯よりも収差制御という点に重きをおけば
ご一読くださった際にお判り頂けていると思いますが、歴史的経緯に重きを置いています。

>「ラクダとロバの子供がラバで、ラバはラクダとは区別すべき。」という発言に対して
>「それにこだわるのはおかしいです。ラクダもロバもラバも哺乳類です。」
この例えは珍妙に過ぎます。
ラクダはウシ目(偶蹄目)ラクダ科ラクダ属です。
ロバは奇蹄目ウマ科ウマ属ロバ亜種です。
ラバは奇蹄目ウマ科ウマ属に分類されます。
ガウスとクセノターは、偶蹄目と奇蹄目に例えられるほど離れたものでしょうか。
加えて、「レンズタイプの分類に拘泥しても仕方ない」とのご主張と矛盾しているように思います。

マクロエルマリートR60mm F2.8について、
>「レンズ設計工学」においてはレンズタイプごとの章分けすらしておら
れない中川治平氏は、「クセノタータイプの後ろに正メニスカスレンズを加えた5群6枚構成」(『レンズテスト[第2集]』p.97)と解説されていますが、このレンズのU.S. PAT. No.3552833のタイトルは”PHOTOGRAPHIC GAUSS TYPE OBJECTIVE”です。

とととさんのクセノターについてのご主張は、分類にしつこく拘泥したあげくに「ブリティッシュショートヘアは、食肉目ネコ科ネコ亜科ネコ属から分離して、ブリティッシュショートヘア目ブリティッシュショートヘア科を新設して、そこに分類すべき」とおっしゃっているように感じます。
by (た) (2020-03-08 19:56) 

(た)

とととさんは長文コメントで「レンズタイプの分類に拘泥しても仕方ない」と主張しつつ、しかしその理由について「便宜上これこれこういう観点に基づいて」をやはり明示されないまま、分類困難な個別例を挙げて、そのまま一般例化しているという欠点は否めません。他人に指摘するなら、まずご自分が実践されるべきと思いますが。

そして、ゾナーとガウスの区別に意味はないとしながら、しかしガウスとクセノターについては偶蹄目と奇蹄目に相当するほど違うと、その区別に異様に拘泥されて、正反対の態度を取られている。奇妙な矛盾が見られます。

とととさんは、ガウスとゾナーについて「レンズタイプにこだわること自体がナンセンス」としながら、クセノターとガウスは非常に大きく掛け離れたレンズタイプであると主張しておられるわけで、これは即ち、ガウスとゾナーには違いがないが、ガウスとクセノターの間には超えがたい深い溝や高い壁があるという主張です。これはなかなか面白い見解で、これをこんな場末の小さなブログのコメント欄に止めておくのは非常に惜しいご説でありまして、是非、査読のある光学学会論文誌にご発表されるべきと思います(笑)

それはともかく、前半の長々と連ねた「レンズタイプにこだわること自体がナンセンス」とする考察は、つまりタクマー58mm F2の設計について旭光学が公式に発表した「このレンズはガウス型でありますので」から目をそらさせることが目的と見ました。

とととさん、あなたは転売ヤーさんなのですか?
by (た) (2020-03-09 16:07) 

osakawanko

S博物館のゾナー論争について、論争が何だったのか、当のS博物館からこちらへのリンクが切れていて、分かりませんでしたが、ようやく発見できました。そこのトーチウッド研究所のゾナー論争のコメント欄に私の見立てを書いておきました。S博物館とのコメント重複を避けるため、詳細はここに書きませんので、詳しくはそちらをご覧ください。

この論争が起きる原因は、光学系の補正状態を、レンズの「断面図」だけで解説を行っている書籍が多く、レンズタイプは収差補正状況から分類するということが、分かりづらいことから起きています。
このサイトのゾナーの解説も「第3群の曲率の強い接合面で高次収差をわざわざ発生させて、それを第2群の3枚接合=屈折率の高い硝材で作られた凸メニスカスと凹レンズで屈折率の低い硝材の凸レンズをサンドイッチにした第2群で補正して、各種収差をまとめて補正している」と書かれている一方、ゾナーの後群貼り合わせ面と、現代ガウスの後群貼り合わせ面が、同じ作用をしていることに言及がありません。その結果クセノタールと、ガウスの貼り合わせ省略と、何が違うのか、客観的な理解ができない状態にあります。厚みの差から分類する説が紹介されましたが、その根拠について言及がありません。
58mmの後群は、光路を推定すると、クセノタールではなく、貼り合わせを略したガウスです。その結果、非点格差の補正が十分でなくなり、周辺画質が保てず、やむなく長焦点化したと推定します。



by osakawanko (2021-07-20 22:05) 

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