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「グレイテスト・アイドル」に思う [Vocaloid]

11月6日に発売されたMitchie Mさんの「グレイテスト・アイドル」初回限定盤。僕も予約して買って、聴いて、そして観てみたわけですが、パッチワークPさんがその感想で僕に振ってこられたのには驚きました。

In Minutiae, God Dwells.: 録音芸術への愛の結晶としての「グレイテスト・アイドル」
http://www.imgd.net/2013/11/blog-post.html?m=1

これはスルーするわけにはいかないかと、また、先月末にボーカロイドオリジナル曲の掲載を予想もしなかった形で終えることになった、そのまとめも兼ねて少し書かなければならないかと、目算のないままキーを叩く次第です。あらかじめ乱文をお詫びしておきます。


「グレイテスト・アイドル」、一聴して感じたのは歌詞がとても分かりやすいことです。ボカロ曲にはライトノベル的と言うか解釈の難しい歌詞の曲も少なくないのですが、このアルバムはどの曲もとても素直に伝わってくる歌詞のように思いました。それがカラッと軽快に、あるいはしっとりと乗っていて、ブックレットを見なくてもよく分かるんですね。そして、自然に歌っているんです。日本人は天然に産出する宝石よりも茶碗のような工芸物に価値を見いだすというような意味のことを書いていたのはノエル・ペリンの「鉄砲を捨てた日本人」だったでしょうか。手を入れることで自然さを得るのは日本庭園的でもあり、人の手を必要とするボーカロイドとそれを評価する周りの状況は、おそらく日本文化の正当な後継者のひとりなのだろうと思うのです。

仮想的なアイドルとしての初音ミク。アイドルが人気を得るのは日本だけだという批判は70年代には既に存在していたかと思いますが、ずいぶんとお年を召した方が美空ひばりを「ひばりちゃん」と親しげに呼んでいたり、人間国宝になった歌舞伎役者の初舞台を懐かしそうに語る高齢古参の歌舞伎ファンがいたり、また、しばしば「相撲は序の口から見るのが通」などと言われるように、成長を見守り愛でるというのもまた私たちの文化の特徴なのだろうと思います。初音ミクの2007年発売以降のトレンドとしての状況と変化もひとりの仮想アイドルの成長と見なすことができるでしょうし、また、詳細な設定もなく世界観も背負わされていないソフトウェア音源のキャラクターとしての初音ミク…もちろん初音ミクだけに限りませんが…は、だからこそ作り手の数だけ存在して、それぞれの初音ミクがそれぞれの作り手の手の中で成長していっているのだと、それを私たち視聴者もともに愛でているのだと、僕はそう思います。


パッチワークPさんの、
アルバムに収録されている曲を礼儀正しく最初から最後まで順番通りに通しで聴くなどという行為は、もはや一部の好事家の趣味でしかなくなってしまった。
これにも考えさせられました。ここ数年、CDアルバムを称して「抱き合わせ商法」と批判する意見をしばしば目にしてきましたが、どんな曲をどういう順番で収録するかという点にも当然に意図があり、それは聴き手のひとりとして心得ておきたいとパッチワークPさんの感想を読んで改めて感じました。僕自身はアルバムの中に気に入った曲が一曲あれば十分に元が取れたと思える方なので、抱き合わせ商法という批判はちょっと悲しいのです。そしてこの「グレイテスト・アイドル」は、どの曲もお気に入りです。

LPジャケットサイズというのも、Amazonから届いた梱包を解いた時には少々驚きましたが、やはりいいものです。82年、初めてレコード店に並んだCDを見た時、ジャケットの印刷がLPに比べて粗いことに落胆を禁じ得なかったことを思い出しました。そして今度はCDを懐かしく語る時代が来たんですね。CDの44.1kHzは元は今風に言えばガラパゴス規格だったというのは本題から外れるので、やめておきます(笑)


音楽制作者がデータを打ち込み、それを演奏する自動演奏機械の一つとしてのボーカロイド。自動演奏機械がいつ発明されたのかは分かっていません。ヘロドトスが神官の命令で動く人形について書き記し、アレクサンドリアのクテシビオスが水力を用いるいろいろな機械…時計やパイプオルガンの祖とされるヒュドラウリスを、ヘロンが自動販売機や蒸気機関を発明し、アンティキティラの機械が作られ、また機械仕掛けの演劇が人気を博していたという古代ギリシアにはもしかすると自動演奏機械もあったのかもしれませんが、現在知られている最初の自動演奏機械は9世紀にアラビアの数学者バヌ・ムサ・ベン・シャキールが解説を記した自動演奏笛と言われます。同じ9世紀、アラビア世界では楽譜も発明され、両者は後にヨーロッパの人々の知るところとなり、今日の西洋音楽の基礎の一端を担います。楽譜も自動演奏機械も音楽を記録する記譜法であり、自動演奏機械には演奏のリファレンスを示すという役割もありました。演奏のリファレンス…ボカロオリジナル曲を「歌ってみた」動画がたくさんアップされている今の様子を連想させられるようにも感じます。

自動演奏機械はそして、オートマタとも切り離せないものとなっていきます。「グレイテスト・アイドル」初回限定盤のDVDで生き生きと動く映像の初音ミクはオートマタの末裔でもあるのかもしれない。そんなことも思ったりします。



僕はシンセサイザーの黎明期にかろうじて間に合った世代で、冨田勲氏のパプペポ親父にいつかシンセサイザーも本当に歌う日が来るのだろうと期待していたものの、しかしずいぶん待たされたものだなあと今にして思います。それでも、あのシンセ黎明期の熱気をもう一度感じられるチャンスが再び訪れるとは夢にも思っていなかっただけに、まさに望外の幸運でした。黎明期のシンセサイザーとその作品もいろいろ批判されていましたが、その当時の批判が、例えば「ボーカロイド作品はボカロならではの表現を目指すべき論」のようにボーカロイド曲に対して再生産されていたのもとても面白く感じていました。ストラヴィンスキー『火の鳥』と並べての富野由悠季監督による批判も今となっては懐かしいですね。

思い起こせば、僕が初めてきちんと聴いたボーカロイド曲は松武秀樹氏による「あの素晴らしい愛をもう一度」、2003年8月23日のことでした。当時は機械が愛を歌うというアイロニカルというか倒錯的なというか、そんな様子を面白く感じたのですが、ボーカロイドが人気化していく中でMEIKOやKAITOにも多くの人々の手で人格が付与されていき、今では生きた人間の愛の歌となりました。これもまた、振り返ってみると感慨深いものがあります。ボーカロイドがまだ純粋に機械だった頃に聴けたこととその後の変化を見て来られたことも大きな幸運だったと思います。



なにかずいぶんとりとめのない文章になってしまいましたが、とてもたくさんの作り手の皆さんに楽しませて頂いたこと、これからも楽しませて頂けるであろうこと、感謝の念に堪えません。最後になりましたが、「グレイテスト・アイドル」で楽しい時間を下さったMitchie Mさん、そしてボーカロイドほか機械歌唱音源を用いて楽曲制作を行っている作り手の皆様、本当にありがとうございました。



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